取り口・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:09 UTC 版)
入幕時は線が細く、引っ張り込んで掛け投げを打つような取り口であったが、上位に進むにつれて肥満体型になり、ぶちかまして一気に出て行くか四つに組んでから無理やりにでも吊る取り口となった。大兵には強かったが動き回る力士や小兵は苦手だった。またその人柄や時間一杯で手に唾を吹き付ける独特の仕草もあいまって人気も高く、土俵際で1回転して向き直って残る特技から「マンボの松ちゃん」とのアダ名があった。ライバルであった若乃花は、「松ちゃんが控えに坐るだけでおかしくなって困った」と言っている。 ライバルとして競い合った若乃花には9勝22敗と大きく負け越しており、若乃花が大関に昇進する前は7勝6敗と勝ち越していたが、若乃花が大関に昇進した後は2勝16敗と全く歯が立たなかった。横綱・栃錦にも5勝23敗と大きく負け越しているが、新大関で5勝10敗と不振だった1956年(昭和31年)1月場所は11日目に対戦して突き放しで勝利している。 関脇以下では信夫山を特に苦手としていて、13勝16敗と負け越しており、二度にわたって4連敗したことがあった。また小結・若ノ海にも3勝9敗と相性が悪かった。 その一方で横綱・千代の山には11勝9敗と勝ち越しており、3回にわたって3連勝するなど相性が良かった。また横綱・鏡里には初顔から7連敗していたが、1954年3月場所に初勝利を挙げてから5連勝し、9勝11敗とほぼ互角に渡り合った。 共に大関昇進を争い、同時に大関として対抗していた大内山には14勝5敗と大きく勝ち越しており、一時期は8連勝するなど非常に相性が良かった。 朝潮に胸を出して、後に横綱となる土台をつくっており、本人は後に「高砂親方(4代目)から朝汐君の稽古にしょっちゅう引っ張り出された。相当な相撲取りになるだろうなと思っていたが、その通りになってくれた」と振り返っている。 大相撲の歴史の中でも上位に入る大食漢であり、幕下時代にはカレーライスを2合以上入る特製の大皿で5杯は食べていたという。また、関脇時代には、わずか4時間の間に料亭で御膳を2人前、寿司屋で握り寿司を83個、うどん屋で大盛りうどんを2杯、部屋に戻って丼飯を2杯平らげてから床に就いたが、それでも満腹感が得られず、夜中に腹がすいて目が覚めたという逸話もある。しかし、そのような大食いが原因で、後には前述の通り糖尿病で苦しむことになった。(えびすこ) 料理は食べるだけでなく作るのも好きであり、幕内昇進後には大ノ海と同様に洋食に傾倒して自らカレーライスやオムライスなどを作っていたという。部屋持ち時代は自ら弟子のちゃんこを用意することで知られており、この頃のエピソードとしては弟子のために天麩羅を揚げていたときに油が跳ねて巨腹に火傷を負ったというものが残っている。 また、賭け事も大好きで前述の白内障手術のために入院する前夜にも大敗しており「負けたのは目のせい。(白内障の手術で)レンズを入れて明るくなったら大勝ちするよ。」と語っていたというが結果的にそれは叶わなかった。
※この「取り口・人物」の解説は、「松登晟郎」の解説の一部です。
「取り口・人物」を含む「松登晟郎」の記事については、「松登晟郎」の概要を参照ください。
- 取り口・人物のページへのリンク