原始教団の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
キリスト教の伝承によれば、ガリラヤ地方で数年間癒やしと説教を行ったイエスは、西暦30年前後、弟子達と共にエルサレムへ移った。その地でユダヤ教の指導者たちと激しい論争が行われた後、彼は囚われて十字架にかけられて処刑された。その後間もなく、弟子達の一部の前に生けるイエスが現れたという報告が登場した。彼を見たという弟子達はその驚異を周囲の人々に伝えた。このイエスの復活を信じ、その体験を確信として共有され、継続的に集まる最初のキリスト教徒グループがエルサレムに形成された。当初数十名程度であったと思われるこのグループの中核には、十二弟子として知られるペトロ、ヨハネやイエスの兄弟ヤコブらがいた。これが原始教団となる。彼等はこの時点では自身がユダヤ教徒であることを確信していたと思われる。しかしこれが、後のキリスト教会の母体となっていく。 イエスの処刑後間もなくエルサレムで活動を再開した人々が最初のキリスト教徒であり、その信仰がキリスト教であるが、この段階での「キリスト教」はあくまでもユダヤ教の一分派であり、「ユダヤ教イエス派の運動」や「ユダヤ教のナザレ派」などと呼んだ方が誤解が無いとされる。本記事では煩瑣を避けるため鍵括弧で括り「キリスト教」と表記する。これは財産共有制の共同生活を行う共同体であり、ペトロを筆頭とする「十二人」と呼ばれる弟子達が中心となって主流派を構成した。また、当時エルサレムには古くから住むアラム語を話すユダヤ人の他に、周辺地域から再移住したギリシア語を話すユダヤ人達も住んでいた。このようなギリシア語を話すユダヤ人達はヘレニストと呼ばれた。この「ユダヤ教徒のヘレニスト」の中から、エルサレムの共同体へ参加する人々があり、これが「キリスト教徒のヘレニスト」となっていく。 エルサレムの共同体の参加人数は増え続け、次第に財産共有制や全員集まっての共同生活が物理的に不可能になっていった。このため自宅に居住する者達が増え、共同体への寄付は各人の裁量に任されるようになっていったと考えられる。また、寄付する資産の無い貧困者の参加の増大によって共同生活の財源の問題も現れ始めたと考えられる。これらによって、共同生活への参加は強く要求されなくなり、完全な団体生活を送らなくても共同体の仲間となることができるようになった。神学博士の加藤隆は、この段階以後を「エルサレム教会」と呼んでいる。次第に教会の組織化も図られ、洗礼、癒やし、悪霊払いに加え、外部の人々への食事の供与も行われるようになった。このような実務を担当するために「執事」職が設けられた。最初の執事はヘレニストであったという。
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