原始日本の妻問婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:12 UTC 版)
日本に置いて妻問婚は、飛鳥・奈良時代に先立つ古墳時代に一般的であったと考えられている。妻と夫はそれぞれの氏族で居住し、妻の財産は妻方の氏族が、夫の財産は夫方の氏族が管理した。 求婚は「ヨバヒ」といい、女が許せばその場で結婚が成立した。ヨバヒには戸口などから女を呼ぶだけといった形から、歌の贈答を経るものもあったらしい。族長クラスになると媒が入ることもあったが、基本的には本人同士が気に入るかどうかであった。結婚が成立した後、女がオヤ(族長)に告げ、認められれば公式の婚姻となる。 この頃の住まいは、大家妻屋式集落と呼びうるもので、大屋=母屋、中つ屋というトジ・トネ、長老たちの詰め所であり、共同祭祀や会食の場となった建物を中心に、ヘヤ、クルワ、マキなどと呼ばれる妻屋群が存在したと考えられている。妻屋群は、倉庫、産屋、若者小屋に加え、娘たちの婚姻用、母たちの育児用の建物が含まれていた。 子の養育は母の一族が行うものであり、夫方の一族が介入することはできなかった。離婚も簡単で、夫が妻方に通わなくなったら「床去り」「夜離れ」といって離婚となった。また通ってきた夫を妻が返してしまえばやはり離婚となった。従って、何らの宣言も届け出もない古代の離婚は大変あいまいなものであった。そのような状況なので一夫多妻はもとより多夫多妻となる婚姻も珍しくなかったらしい。 妻問婚は平安時代まで継承され、これが摂関政治成立の原因のひとつとなった。藤原氏を妻に持つ天皇の子は、母の一族である藤原氏のもとで養育され、その子が長じて天皇になった場合に、藤原氏の意向に従う存在となるのは当然の帰結であった。しかしながら平安時代中期より制度に変化が見られ、生まれた子供の養育を父の一族で行う慣例となり、これが後三条天皇以降の摂関政治の衰退の原因となる。
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