原作との関係・文字による芸術との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 16:54 UTC 版)
「映画」の記事における「原作との関係・文字による芸術との関係」の解説
映画は、もともと映画のためだけにプロット(筋書きのエッセンス)が書かれ、映画のためだけに脚本が書かれることが多いが、あらかじめ小説などがあり、後から「映画化」が行われることもある。また(あまりそうした国は多くないが)日本やアメリカなど、漫画やコミックがさかんな一部の国では、漫画やコミックを原作として映画がつくられることがある。 原作となる文学作品がある場合 小説のような文字による芸術と、映画という映像(や音響)による芸術は、それぞれ特性が大きく異なっている。(文字だからできること、反対に文字には不向きなこと、映像だからできること、反対に映像には不向きなことがある。)文字を用いた芸術と映像を用いた芸術は いわば「まったく 別物」なので、古典文学を原作として映画化を行うことは、さまざまな困難がともなう。 たとえばジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンナ・カレニナ』では冒頭の「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳)に相当する部分は、映像では表現することはあきらめ、結局、文字で示さざるを得なかった。 沼野充義は「単純にスローガン的に、文学を原作にした映画の効用」として3つあげている。 一つは「原作と違うといって文句を言える」こと。二番目に「文学では見てはいけないものを映画にすると見ることができる」ということ。例えば、ワレーリイ・フォーキン監督 『変身』など、カフカが映像化したくなかったかもしれないものを映像化している。三番目は「読み切れない作品を二時間程度で読んだ気になれる」ということ。例えば『戦争と平和』などは3時間あるが、絢爛豪華な歴史世界を映画で見ることができるし、いつか原作を読もうという気持にさせる。 一般的には、原作をできるだけ忠実に映像化しようと試みた映画作品は、映画作品としては評価が低くなりがちで、その反対に『砂の器』やジャン・ルノワール監督の『ピクニック』など、原作とは異なる内容の映画作品や、短編小説を原作とした映画作品(つまり、原作はせいぜい「きっかけ」や「結晶の核」として用いて、原作とは距離を置いて、文学作品の大部分の要素は思い切って切り捨てたり、変えてしまい、映画という独特の技法の側の都合を(最)優先させた映画作品)のほうが「名作」とされることが多い。
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