北政所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 12:01 UTC 版)
その後、秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。この頃、何らかの症状による便秘に苦しんでおり、10月24日付のおね宛ての秀吉の書状の中で、「大便」の文字が三度、「下くだし」(下痢)の語が二度でてくる。 天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸し、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。 天正20年(1592年)、秀吉から所領を与えられており、平野荘に約2,370石、天王寺に3,980石、喜連村約1,405石、中川村約491石など、合計1万1石7斗であった。 文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役で秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。
※この「北政所」の解説は、「高台院」の解説の一部です。
「北政所」を含む「高台院」の記事については、「高台院」の概要を参照ください。
北政所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:41 UTC 版)
秀吉の正室。その資性の聡明さで少壮の頃から秀吉を支え、賢婦人として豊臣家の創建を大いに助けた。気さくで闊達な性格から多くの家臣に慕われたものの、加藤清正・福島正則といった武勇の徒を好み自身の郷里である尾張出身者を贔屓にする癖があり、また豊臣の天下が軌道に乗るにつれて吏僚達が幅を利かせる様を心良く思わず、その下には政権中枢から疎外された武辺者の家臣が集まるようになり自然と閥が形成された。一方で秀吉の側室の淀殿の下には三成に代表される吏僚達が閥を形成するようになり、二つの閨閥の対立は武断派と文治派の諍いに発展し、豊臣家の屋台骨を揺るがすこととなる。
※この「北政所」の解説は、「関ヶ原 (小説)」の解説の一部です。
「北政所」を含む「関ヶ原 (小説)」の記事については、「関ヶ原 (小説)」の概要を参照ください。
北政所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 16:09 UTC 版)
秀吉の正室。秀吉の死後大坂城を出、現在は尼となって京の東山山麓で秀吉の霊を弔いながら日々を過ごしている。少壮の頃から夫を支えてきただけあって時勢を見通す眼力があり、豊臣家が存続するためには織田信長亡き後の織田家のように小大名として徳川政権下で生きるべきと考えており、関ヶ原以前から密かに家康と気脈を通じ、自身を慕う加藤清正・福島正則らに家康に従うよう言い含める。
※この「北政所」の解説は、「城塞 (小説)」の解説の一部です。
「北政所」を含む「城塞 (小説)」の記事については、「城塞 (小説)」の概要を参照ください。
北政所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 18:15 UTC 版)
「タイムスリップ探偵団」の記事における「北政所」の解説
※この「北政所」の解説は、「タイムスリップ探偵団」の解説の一部です。
「北政所」を含む「タイムスリップ探偵団」の記事については、「タイムスリップ探偵団」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から北政所を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 北政所のページへのリンク