三条西実隆の娘の場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 14:10 UTC 版)
しかし「北政所」が宣旨をもって贈られる称号となった以上、摂政関白の正室は必ずしも自動的に北政所だとは言いきれなくなった。新任の摂関の場合、正室の年齢や実家の家格によっては、夫の摂関補任から相当の時を経てから北政所が宣下されることもあったからである。室町時代後期の朝廷の動きを知る上での一級史料として知られる内大臣三条西実隆の日記『実隆公記』には、実隆の娘・保子とその夫・九条尚経の消息が散見する。保子が尚経と婚儀をあげて「北方」になったのは明応四年七月廿五日(1495年8月24日)のことだったが、6年後の文亀元年六月廿九日(1501年7月24日)に尚経が関白に補任された後も、保子には長きにわたって北政所が宣下されなかった。やっとその宣旨が出たのはそれから3年半近くも経った文亀三年十二月十八日(1504年1月15日)のことである。 しかし室町時代後期から戦国時代になると、公家は必ずしも正式な婚儀をあげて正室を迎えるとは限らなくなり、摂関家でも生涯正室をもたずに側室のみをおく者がでるようになる。その結果「北政所」の称号が贈られる摂関の正室は数えるほどまでに減少することになった。
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