三条西家の経済状態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 13:56 UTC 版)
三条西家も、他の公家と同様に荘園からの収入などで生計を立てていた。三条西家の荘園は畿内を中心に美濃・尾張にも散在していたが、遠隔地からの収入は基準に大きく及ばないことが多く、経済的に不安定となる大きな要因となった。また、度重なる戦争のため、時代の変化とともに収入が滞ることが多くなっていく。別の主要財源として、座からの収入も得ており、こちらが経済的基盤となりつつあった。三条西家では、塔の森の渡場、淀の魚市のほか、各地に点在する青苧座(あおそざ)の本所としての収入があり、とくに青苧座については幾度か記述されている。 また、実隆の文化人としての名声は地方にも広まり、各地から和歌・連歌の添削・合点や古典の書写、色紙・短冊の染筆を依頼されるようになった。さらに三条西家を訪れて古典の講釈を求めるものもおり、彼らから得た収入も大きな財源となっていた。他の公家が経済的困窮のために地方に下る例が後を絶たない中、実隆が京都にとどまることができた大きな理由は、文化人としての収入が大きかったこともあると考えられている。 とはいえ経済的に苦しい状態が続いていたのは間違いなく、日記の全時期にわたって借金を意味する「秘計」の表現が見られる。収入について詳しく書かれるのは長享2年(1488年)頃からであるが、ことに後半では収入に関する記述が頻繁に見られ、金銭的に厳しい状態が続いていることが見られる。実際に収入は年を追うごとに減少しており、三条西家の経済が崩壊していく動きを見て取ることができる。とくに出家後の永正17年(1520年)以降は、荘園からの収入が詳細に記されるようになった。 晩年には堺の富商である武野新五郎と知己となり、実隆が武野に歌学や和歌を指導する一方、武野からは少なからず経済的援助を受けていた。
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