平清盛の娘たちの場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 14:10 UTC 版)
平安時代末期に摂関家が分裂して五摂家が成立し、これに伴って摂政関白の交替が頻繁に行われるようになると、同時期に複数の北政所が存在するということも珍しくはなかった。鎌倉時代に成立した『平家物語』の巻一には入道相国平清盛の子らについて語られる章がある。娘たちを紹介するくだりでは、まず高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んで国母となった三女の徳子に触れたあと、 ……一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ。髙倉院御在位の時御母代とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にてましましけり。一人は普賢寺殿の北政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方。一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。 — 『平家物語』巻一、五「吾身榮花」 とある。この「六条の摂政殿の北政所」というのは摂政関白藤原基実の正室となった四女の盛子、「普賢寺殿の北政所」というのは摂政関白近衛基通の正室となった六女の完子のことである。また「冷泉大納言隆房卿の北方」というのは権大納言藤原隆房の正室となった五女のことだが、隆房は後白河院の寵臣としては名を馳せたものの、摂政でも関白でもなかったので、その正室も「北方」という表現になっている。そして「七条修理大夫信隆卿に相具し給へり」というのは修理大夫藤原信隆の妻となった長女のことで、信隆には正室が別にいたためこの長女は北方ではなく、したがって「相具す」(嫁ぐ)という表現が使われている。 詳細は「平盛子」および「平完子」を参照
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