加害者が男の場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 23:13 UTC 版)
「少年への性的虐待」の記事における「加害者が男の場合」の解説
加害者が男の場合は男児が同性愛であれ異性愛であれ自分自身の性的指向や性的同一性に危機をもたらしやすい。 この危機が激しくなりやすいのはどちらかというと異性愛の男性である。さらに、虐待時どれだけ自分の性的指向と性自認について自己認識がはっきりしていたかを考慮すると、この問題に関する議論はさらにややこしくなる。かなり低年齢の場合性自認に疑問を持つことが多いが、ある程度年齢が上がり性自認の自己認識がはっきりしてきたときであっても、今度は性役割のほうに不安を持ったりもする。たとえ性自認が安定していても、自分が主に同性愛か主に異性愛かがよく分からないときに虐待を受けた場合には自分が本来的に同性愛か異性愛か両性愛かとか様々に疑問を持ちやすい。 性的虐待を受けた男児が必ず同性愛者ではないかという誤解は本人と社会に共通のものだが、これは誤解である。だが性的虐待を受けた男児は異性愛であっても、被害を受動にし、同性愛に結びつけた結果として自分自身の性的指向の認識に著しい混乱をきたす。虐待の最中に勃起や射精が起こった場合、この混乱はより激しいものとなる。ペニスを挿入され前立腺を刺激されれば本人がどんなに嫌だと思おうと勃起する事が多いのであるが、こうした常識が日本に浸透しているとは言いがたい。 こういった性的虐待の場合には性的指向のセクシュアリティが揺らぐことが多いが、これは本人に激しい苦痛を与える。だが、性的指向を二分法で捉えがちな社会の常識に反し、実際には性的指向のセクシュアリィは複雑で多層的であるとアルフレッド・キンゼイは主張した。 また、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム、または異性愛嗜好・ヘテロフィリアとも呼ぶ)に基づく同性愛恐怖(ホモフォビア)の問題も絡む。ホモフォビアはそれ自体性的虐待と呼んでもよいほどの偏見であり、実際には全く同性愛は異常ではない(詳細は同性愛の項目を参照)。 ここで重視すべきなのは性的行動は性的指向ではないという事実である。フィンケラー (1981, 1984) のように、同性愛的傾向を持つ少年のほうが被害に遭いやすい可能性はあるが、ゲイの男性の性的虐待の被害経験の多さから同性による性的虐待が同性愛指向を助長しているのではないかという意見も存在したが、これに対しては性的指向は6〜12歳(ジークムント・フロイトの言う潜伏期)より前に成立すると多くの専門家は認めているにもかかわらず事例はその後に起こることが多いという指摘や、さらにSimariとBaskin (1982) の研究においてほとんどの性的虐待を受けたゲイ男性が自身の同性愛指向をはっきり気づいていたという事実との矛盾など、そう簡単に性的指向が変動するものではないという反論も多い。 またゲイの男性の場合、ゲイとしてのアイデンティティを確立する途中において孤独感に苛まれる男児は多いが、その際に性的虐待があったために、性的虐待の事実が自分の孤立感を癒した体験に摩り替わってしまう危険性もある。ゲイであろうと性暴力に伴う屈辱は変わりはないが、そういった屈辱を自らの内に秘めてしまうことが多いようである。 また、加害者が異性愛であるように周囲に振舞っていた場合、子供は同性愛タブーというものを無意識に感じ取りタブーの侵犯意識は非常に強くなる。
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