創作の背景と経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/05 15:01 UTC 版)
「ローマ (ビゼー)」の記事における「創作の背景と経緯」の解説
ビゼーは1857年にローマ大賞を獲得すると、それから2年間を無料でローマのフランス・アカデミーに留学した後、1年間ドイツに留学するよう要請された。ドイツには行かず仕舞いになったものの、ローマには1860年7月まで逗留している。パリにまっすぐ引き返す代わりにイタリア中を旅行して、1858年と1859年には行かなかった土地に向かったが、ヴェネツィア入りした頃に母親が重病であるとの知らせを受けて、直ちに帰国した。 『ローマ』は、このイタリア留学がきっかけとなって作曲された。リミニに滞在中、初めて、4つの楽章にそれぞれイタリアの別々の都市(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ)の名を冠した『イタリア交響曲』という案を練っており、1860年8月のビゼーの書簡にその記述が見られる。この頃には初期の草稿がいくらか出来上がっていた可能性があるが、楽譜は現存していない。 1861年までに書き上げられたスケルツォ楽章「ヴェネツィア」(ローマ留学中に作曲された作品に手を加えたものと考えられている)は同年11月に非公開で初演され、2年後の1863年1月11日にジュール・パドルーの指揮によってシルク・ナポレオン(Cirque Napoléon)において公開初演が行われた。演奏は低調で、多くの聴衆は敵意に満ちた反応を示したが、1月18日に国立美術協会で行われた再演では、ずっと前向きな反応が得られた。このスケルツォ楽章は、現在でも全体の中で出来が良いと認められている。 1866年までにビゼーは全曲の初稿を書き上げたが、不満を覚えて全体の改訂に着手した。この際に変奏曲であった第1楽章は主題だけを残して全面改訂され、第3楽章には終楽章のテーマが挿入された。1868年6月に完成した第2稿は、1869年2月28日に交響的幻想曲『ローマの思い出』のタイトルで、またもやパドルーの指揮で上演された。この時はスケルツォ以外の3つの楽章が演奏され、それぞれに「オスティの森の狩」、「行列」、「ローマの謝肉祭」という標題的な題名がつけられていた。ただし、これらがビゼーによる命名かどうかは不明である。 第2稿にもビゼーは満足できず、作品にもう一度手を加えた。最終稿となる第3稿はどうやら1871年までにはビゼーの手を離れたと思われる(ビゼーが他の企画に没頭していたからである)。1875年にビゼーは36歳で早世するが、生前には最終稿による『ローマ』の全曲演奏は行われず、その初演はビゼーの死から5年経過した1880年10月、パドルーによって行われた。その際のタイトルは『ローマ - 4部からなる交響曲』とされていたが、1880年にシュダーン社から出版されるにあたり、『ローマ - 演奏会用の第3組曲』と変更された。シュダーン社は『ローマ』を、『アルルの女』第1、第2組曲につぐ第3の組曲にしようとしたものと考えられる。出版譜はおそらく1871年になされた変更を採用しており、各楽章のタイトルは「序奏とアレグロ」、「アンダンテ」、「スケルツォ」、「カーニヴァル(謝肉祭)」とされた。現在の出版譜では各楽章のタイトルは全て削除されている。
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