前期からの継続課題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「前期からの継続課題」の解説
改革当初から積極的に行ってきた各地の土木工事は、天保12年(1841年)以降も継続して取り組んだ。曽木川や小林川の改修工事や、鹿児島城下の甲突川の河川改修、そして甲突川にかかる橋を石橋とする工事などである。川幅が狭い上に河床が高い甲突川はしばしば洪水を起こし、鹿児島城下の浸水、橋の流出等の大きな被害を与えていた。そこで調所は大規模な河川改修、川にかかる橋を石橋とする工事を行うことを決定し、肥後から石工岩永三五郎を招請するなどして工事を進めた。この時の架橋で完成した西田橋など5つの石橋はよく知られている。なおこの工事時の排土による埋立地が天保山である。改革を通じて支出された土木建設費は総額約200万両に達したとされている。 土木工事の中には新田開発があった。調所は領内各地で新田開発を行い、中でも甲突川の改修工事で活躍していた岩永三五郎を責任者として行われた国分小村の新田工事が最も大規模で、工事費は2万8000両に達した。また調所は薩摩藩領から他領へと逃散した農民の引き戻しにも取り組むが、これは思い通りにはいかなかった。 また菜種栽培で効果を見せた骨粉肥料を米作にも広く導入し、養蚕、絹織物業の発展のために近江や京都西陣から、藍の製法を広めるために大坂、阿波から技術者を招請するなど、農業の改革、そして領内産品の品質向上も継続して取り組んだ。 薩摩藩では藩主島津家の分家が最も有力な家臣となっていたが、藩本体と同様、分家も厳しい財政難に悩まされていた。対外的な緊張も高まりつつある中、有事の際、藩主に最も近い分家が弱体化していることは藩にとって大きな問題であると考えた調所は、分家の財政難の解決に当たることになった。分家の財政改革には海老原清熙ら調所の腹心が当たり、各分家とも財政難の改善に成功する。この島津家分家の財政難改善への取り組みは、後述の藩の軍制改革にも繋がっていく。
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