前川道平・カブトヤマとの出会い
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「大久保房松」の記事における「前川道平・カブトヤマとの出会い」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} カブトヤマ 第2回東京優駿決勝線の様子。1位入線が大久保とカブトヤマ。 1932年のこと、大久保は抽せん馬を受け取りに北海道へ赴く最中、青函連絡船の待合い場において、日頃行きつけていた目黒の犬屋でしばしば顔を合わせていた少年と偶然に出くわした。旅行中であると告げた少年は、父親を大久保に引き合わせた。この人物は新宿伊勢丹社長の前川道平であった。大久保は土地勘のない前川から道中の案内を請われ、浅虫、花巻温泉と親子に同道して廻った。その帰路、前川はこれを縁に自分も馬を1頭買うと申し出た。小岩井農場で行われる予定のセリ市に目当ての馬がいた大久保は、これを好機と見て前川に小岩井への同行を頼み、二人連れ立ってセリ市へ参加した。 大久保が欲しがった父シアンモア、母アストラルの牡駒は目玉の1頭であり、大久保は競りが始まると同時に「2万円」と声を上げた。続いて杉浦照が2万100円を提示したが、大久保が2万150円を返すと続く者はおらず、この価格で大久保・前川が競り落とした。大久保によれば、自身の強気な競りと、その隣にいる前川の風采に、他の関係者は「大久保の奴はえらい旦那を掴んだらしい。これは迂闊に競っても落とせない」と判断したのだといい、2万150円という価格について「あの時分はもう、3万だ、4万だという馬が出ていたのですから、安かったですよ」と語っている。 この馬はカブトヤマと命名され、1933年、第2回の東京優駿大競走に大久保が調騎兼業で出走し、優勝を果たした。競走2日前から大久保は高熱に冒されており、前川に騎手交代を申し入れたが、前川は「カブトヤマは君のために買った馬だから、我慢して乗れるものなら乗ったらどうか。どうしても乗れないならやむを得ないが」と返答した。この言葉に、大久保も覚悟を決めて騎乗したという。結局大久保はカブトヤマの全戦で手綱を取り、他に1934年の福島帝室御賞典などに優勝した。 1933年を限りとして目黒競馬場は閉鎖され、厩舎は中山競馬場へ移った。以後厩舎経営は軌道に乗り、1937年にはイワヰカブトで横浜帝室御賞典(春)に優勝。1939年には管理馬ホシホマレが佐々木猛騎乗で第2回の阪神優駿牝馬(オークス)に優勝した。また1937年には、鳴尾競馬場の中島時一から依頼を受け調教を担当していたヒサトモが、牝馬として初めてダービー優勝を果たしている。なお、1938年に調教師と騎手の分業化を進めるため「調騎分離」が導入され、若年ゆえに特例扱いされた稲葉幸夫、岩佐宗五郎、松永光雄を除き、調教師として活動していた者は全て騎手免許の返上が義務づけられた。大久保の騎手通算成績は820戦88勝であった。 その後第二次世界大戦に至り、日本では太平洋戦争激化の最中、1945年に競馬は一時休止され、大久保は厩舎人で構成された輓馬機動隊に編入されて尾形藤吉らと共に岩手県盛岡市に派遣された。
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