刈和野・椿台方面の戦い
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8月27日、庄内二番大隊は大曲に転陣して、角館の戦いに出かけた一番大隊の留守を預かった。9月2日に大曲へ帰還した一番大隊から角館の戦いの戦況を聞き、軍議を開いて作戦を練り直した。今度は二番大隊が中心になり、海道口の四番大隊と協力して、雄物川流域の福部羅付近を強行渡河する作戦になった。四番大隊は久保田城を目指して北上し、二番大隊は神宮寺の鎮撫軍本営を攻撃し、一番大隊は大曲で神宮寺・角館の鎮撫軍をひきつけるという作戦であった。 9月7日午前2時、二番大隊は大曲を出発して行軍し、9月8日に雄物川を渡河した。すでに四番大隊が渡河して、久保田兵と川口を守備していた福岡兵と交戦していた。新政府軍は敗走して、庄内軍は北東に転進した。 詳細は「雄物川渡河作戦」を参照 内陸を進んだ庄内一番大隊・二番大隊と、由利から高尾山を越えて秋田に入った四番大隊が、こうして連携を取るようになった。9月9日には椿台(秋田市雄和)の目前に達した。 詳細は「刈和野の戦い」を参照 庄内軍進撃の急報に接した鎮撫軍は、久保田藩の支藩である久保田新田藩の陣屋が建設される予定であった椿台とその付近の丘陵に、兵力を集中して強固な陣地を構築した。ここは久保田城まで3里(約12km)の地点であり、椿台を突破されると久保田城が直接戦火に晒されることは必至の状況であった。 9月10日より、庄内軍は三手に分かれて椿台へ総攻撃に入った。糠塚山を守備していた佐土原兵・久保田兵・本荘兵・福岡兵と交戦し、糠塚山を占領して、安養寺から椿台・椿川方面に攻め込んだ。佐賀藩兵による援軍と新式銃の支給を受けていた鎮撫軍の守備はこれまでになく堅く、9月11日に鎮撫軍が反撃を開始した。激戦の後も決着がつかず、9月12日に庄内三番大隊が長浜に来襲して激戦が繰り広げられた。新政府軍の善戦により、庄内軍が雄物川を渡り敗走する。 詳細は「椿台の大会戦」を参照 この頃の南方情勢として、8月28日に米沢藩が新政府軍に降伏。9月12日に米沢藩の支持により上山藩も降伏し、9月13日に仙北の兵も上山に帰還。9月9日ごろから同盟軍の諸隊が仙台に集結して、城内では連日激論が交わされていた。9月12日、米沢藩から仙台に到着した降伏勧告の使者に説得されて、9月13日には仙台藩も新政府へ恭順することになった。 このため奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった。旧幕府艦隊を率いた榎本武揚と新撰組副長の土方歳三は、仙台藩に見切りを付けて函館に渡った。この状況下にあって、9月14日に庄内軍は軍議を開き、庄内に撤退して自領防衛に徹することを決めた。 9月15日、刈和野を攻撃して奪回戦を行った。一番隊の背後からの奇襲により、16日午後2時ころ新政府軍は潰走を始めた。一番隊は引き上げを助けるために、撤退戦を行った。盛り返した新政府軍の攻勢をかわしながら引き返した。9月17日、鶴岡城で降伏の藩議が決定された。23日に庄内軍の全軍の帰還完了を確認した。 詳細は「刈和野奪回戦」を参照
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