再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊
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「フランソワ・カヴァナ」の記事における「再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊」の解説
これに代わる新聞として1969年2月に『Hara-Kiri Hebdo (アラキリ・エブド)』を創刊したものの、翌1970年には再び発禁処分を受けることになった。1970年11月9日にコロンベ=レ=デュー=エグリーズでフランス第18代大統領シャルル・ド・ゴールが死去したことを受けて、11月16日号の見出しを「コロンベで悲劇のダンスパーティ ― 犠牲者1人 (Bal tragique à Colombey - un mort)」としたからである。これは11月1日にサン=ローラン=デュ=ポン(イゼール県)のディスコテーク「5-7」で起こった放火事件(死亡者146人)に関する新聞の見出しのパロディーであった。なお、歴史学者で『シャルリー・エブド』に関する論文で博士号を取得したステファーヌ・マズュリエは、この風刺画はシャルル・ド・ゴールを揶揄したものではなかったが、編集部の意図はどうあれ、発禁処分を受けた以上、これを機会に同じメンバーで新しい新聞を作ることにしたのだと説明している。 こうして1970年11月23日に誕生したのが『シャルリー・エブド』である。『アラキリ』の風刺精神を受け継ぎながら、軍国主義と人種差別に反対し、エコロジーとフェミニズムを支持する内容であった。特にフランスおよび欧州の反核運動の発端となったビュジェ原子力発電所反対運動を起こし、動物福祉運動においても先駆的な役割を果たした。そして、『アラキリ』から『シャルリー・エブド』に至るまでいわばオーケストラの指揮者の役割、全メンバーの精神的指導者の役割を担っていたのがカヴァナであった。 彼にとってユーモアとは権力に対抗すること、あらゆる愚行の「ツラにアッパーカットを食らわせること」であった。だが、1981年5月の大統領選挙および6月の総選挙で社会党が第一党になり、1973年に『シャルリー・エブド』と同様に左派の新聞として創刊された『リベラシオン』が時代の空気を伝えることができたのに対して、『シャルリー・エブド』は時代遅れの感があった。読者離れが進み、さらに独立性を維持するために広告を一切掲載しない方針であったため深刻な経営難に陥った挙句、1981年末には破産申立を行い、12月23日、最終号を発行した。カヴァナは2010年に、「今では『アラキリ』は輝かしい成功を収めたかのように言われるが、他のすべてのジャーナリスト、アーティストから憎まれていた。下品で悪趣味な新聞だと非難され、反逆者、与太者、社会の周辺に追いやられた人間の集まりだと言われた」と回想している。だが、後悔も郷愁もなかった。重要なのは活動の継続であり、実際、この10年後にフィリップ・ヴァル (Philippe Val) が同名の風刺新聞『シャルリー・エブド』を創刊したときには、これに加わることになった。
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