再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊とは? わかりやすく解説

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再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:29 UTC 版)

フランソワ・カヴァナ」の記事における「再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊」の解説

これに代わる新聞として1969年2月に『Hara-Kiri Hebdo (アラキリ・エブド)』を創刊したものの、翌1970年には再び発禁処分を受けることになった1970年11月9日にコロンベ=レ=デュー=エグリーズでフランス18大統領シャルル・ド・ゴール死去したことを受けて11月16日号の見出しを「コロンベで悲劇ダンスパーティ犠牲者1人 (Bal tragique à Colombey - un mort)」としたからである。これは11月1日サン=ローランデュ=ポンイゼール県)のディスコテーク5-7」で起こった放火事件死亡者146人)に関する新聞見出しパロディーであった。なお、歴史学者『シャルリー・エブド』に関する論文博士号取得したステファーヌ・マズュリエは、この風刺画シャルル・ド・ゴール揶揄したものではなかったが、編集部意図どうあれ発禁処分受けた以上、これを機会に同じメンバー新し新聞作ることにしたのだと説明している。 こうして1970年11月23日誕生したのが『シャルリー・エブド』である。『アラキリ』風刺精神受け継ぎながら、軍国主義人種差別反対し、エコロジーフェミニズム支持する内容であった。特にフランスおよび欧州反核運動発端となったビュジェ原子力発電所反対運動起こし動物福祉運動においても先駆的な役割果たした。そして、『アラキリ』から『シャルリー・エブド』に至るまでいわばオーケストラ指揮者の役割、全メンバー精神的指導者役割担っていたのがカヴァナであった彼にとってユーモアとは権力対抗すること、あらゆる愚行の「ツラアッパーカット食らわせること」であった。だが、1981年5月大統領選挙および6月総選挙社会党第一党になり、1973年『シャルリー・エブド』同様に左派新聞として創刊された『リベラシオン』が時代の空気伝えることができたのに対して『シャルリー・エブド』時代遅れの感があった。読者離れ進み、さらに独立性維持するために広告一切掲載しない方針であったため深刻な経営難陥った挙句1981年末には破産申立行い12月23日最終号発行したカヴァナ2010年に、「今では『アラキリ』輝かし成功収めたかのように言われるが、他のすべてのジャーナリストアーティストから憎まれていた。下品で悪趣味な新聞だと非難され反逆者与太者社会周辺追いやられた人間集まりと言われた」と回想している。だが、後悔郷愁もなかった。重要なのは活動継続であり、実際、この10年後にフィリップ・ヴァル (Philippe Val) が同名風刺新聞『シャルリー・エブド』創刊しときには、これに加わることになった

※この「再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊」の解説は、「フランソワ・カヴァナ」の解説の一部です。
「再度の発禁処分と『シャルリー・エブド』創刊」を含む「フランソワ・カヴァナ」の記事については、「フランソワ・カヴァナ」の概要を参照ください。

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