再度の移転と良尚法親王の中興
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「曼殊院」の記事における「再度の移転と良尚法親王の中興」の解説
北山にあった曼殊院は、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、康暦年間(1379年 - 1381年)、洛中に移転する。移転先は相国寺の南方、現在の京都市上京区内に相当する。 明応4年(1495年)頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。 曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656年)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。この地は曼殊院と同じく比叡山の小坊の1つで慶滋保胤らによって勧学会が開かれたものの後に廃絶した月林寺の跡地であったといわれている。 良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、後水尾天皇の猶子であった。良尚法親王は天台座主を務めた仏教者であると共に茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。曼殊院に伝存する茶室、古今伝授資料(古今和歌集の秘伝を相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好の立花をスケッチしたもの)などの文化財は法親王の趣味と教養の広さを示している。 この時に建てられた書院内の釘隠しや引手、欄間などは桂離宮と共通した意匠がみられ、同じ系列の工房で作られた物である。これらにより曼殊院は「小さな桂離宮」とも呼ばれている。
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