再度の移転と良尚法親王の中興とは? わかりやすく解説

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再度の移転と良尚法親王の中興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:50 UTC 版)

曼殊院」の記事における「再度の移転と良尚法親王の中興」の解説

北山にあった曼殊院は、足利義満北山殿(後の鹿苑寺造営のため移転余儀なくされ、康暦年間1379年 - 1381年)、洛中移転する移転先相国寺南方現在の京都市上京区内に相当する明応4年1495年)頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇猶子である大僧正慈運法親王26門主として入寺して以降曼殊院代々皇族門主務めることが慣例となり、宮門跡としての地位確立した曼殊院東山山麓現在地移し寺観整えたのは29門主良尚法親王であった法親王とは皇族男子出家後に親王宣下受けた者の称である)。曼殊院現在地への移転明暦2年1656年)のことで、現存する大書院本堂)、小書院などはこの時ののである。この地は曼殊院同じく比叡山の小坊の1つ慶滋保胤らによって勧学会開かれたものの後に廃絶した林寺跡地であったといわれている。 良尚法親王桂離宮造営したことで名高い八条宮智仁親王第二皇子であり、後水尾天皇猶子であった良尚法親王天台座主務めた仏教者であると共に茶道華道香道和歌書道造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響大きかった曼殊院伝存する茶室古今伝授資料古今和歌集秘伝相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好立花スケッチしたもの)などの文化財法親王趣味教養広さ示している。 この時に建てられ書院内の釘隠し引手欄間などは桂離宮共通した意匠がみられ、同じ系列工房作られた物である。これらにより曼殊院は「小さな桂離宮」とも呼ばれている。

※この「再度の移転と良尚法親王の中興」の解説は、「曼殊院」の解説の一部です。
「再度の移転と良尚法親王の中興」を含む「曼殊院」の記事については、「曼殊院」の概要を参照ください。

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