再副次法典の時代(唐代後半から五代時代)
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「中国法制史」の記事における「再副次法典の時代(唐代後半から五代時代)」の解説
唐前期の律令法体系に支えられた国家体制は、玄宗の治政を頂点として崩壊していく。 生産は土地の国有を前提とする均田制から、土地の私有を前提とする地主=佃戸制(地主が所有する土地を小作人である佃戸が耕作する体制)へと移行した。徴税体系は、均田農民を負担者とする租庸調制から、地主を負担者とする両税法へと転換した。これは現物経済から貨幣経済への転換も意味する。国家財政は地税収入よりも、貨幣経済と商業流通の発展に即応した専売収入に依存してゆく。軍事体制も均田農民を徴兵する府兵制から、兵卒を金銭で募集する募兵制へと移行した。 これら「唐宋変革」と呼ばれる国家と社会の変革は、安史の乱以前から徐々に進行していた。安史の乱によって唐が滅亡の淵に追い込まれた後は、変革の流れをとどめることはできなかった。780年(建中元年)の両税法の施行は、それを象徴する。専売を侵す闇商人が国家への抵抗と反乱を繰り返し、募兵を集めた節度使の軍団が藩鎮へと成長し、要地に割拠し実権を掌握する状況の中で、唐は907年に滅亡した。唐の滅亡の後、華北に後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が継続し、江南に10前後の国家が興亡する五代十国と呼ばれる戦乱の時代を迎える。 律令法体系は「唐宋変革」に対応できず、律令格式の改定編纂は737年(開元25年)を最後に放棄された。律令を修正補充する副次法典の格も固定された。 そこで、律令格式を全体として修正補充する「再副次法典」として編纂されたのが、開元25年の格のあとに下された単行指令を集成した「格後勅」だった。格後勅は元和・大和・大中の3度公布された。五代最初の後梁が編纂した『大梁新定格式律令』の内容は、開元25年の律令格式とほとんど同じである。 後唐は後梁の法典を廃棄して唐の法体系を復活させ、格後勅に代えて、皇帝の単行指令である詔勅を編集した編勅である『清泰編勅』を編纂した。詔勅は、後晋と後周でも編纂されることになる。 格が実質的な意味を失う一方で、律・令・式は現行の法典として承継されていき、律には、刑罰基本法典としての意義に加えて、国家の基本法典としての意義も認められるようになる。そのことを示すのが、開元25年の律と律疏の間に重要な令・格・式・単行指令の規定を挟み込んだ「刑律統類」の編纂であった。唐の『大中刑律統類』は私的な編纂物に過ぎないのに対し、後唐の『同光刑律統類』は国家の法典として編纂された。
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