円卓会議と政府の謝罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 10:15 UTC 版)
「成田空港問題」の記事における「円卓会議と政府の謝罪」の解説
詳細は「成田空港問題円卓会議」を参照 強権の発動で新東京国際空港を開港させた政府だったが、開港後も強固な反対派住民の土地取得はままならず、空港二期工事(第2空港ターミナルビル周辺の整備・B滑走路の建設)の着工する事さえ覚束ない状況が続いた。また、二期地区周辺は支援活動家らが頻繁にパトロールをしており、党派との接点が多い反対派農家も「援農」の名目で外出・電話・郵便物など私生活の細部に亘ってチェックを受けていて、用地交渉担当者の接触が困難になっていた。 しかし、冷戦終結や江藤隆美運輸相が過去の誤りを公式に認めたことを契機として、1980年代末頃から話し合いの機運が再び生まれ、反対派の一部と関係者の間で成田空港問題解決が模索された。1991年(平成3年)11月からは、隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもとで15回に亘る「成田空港問題シンポジウム」が開催され、旧熱田派・運輸省・空港公団・千葉県で公開討論会が行われた。ここで旧熱田派は「2期工事の土地問題を解決するために、いかなる状況のもとにおいても強制的手段をとらない」との言質を国から引き出すことに成功し、更に引き続き1993年(平成5年)9月から12回に亘って開催された「成田空港問題円卓会議」で、今後の新東京国際空港の整備を民主主義に基づく対等な話し合い手続きで進めていくことが確認された。 円卓会議の結論を受け、1995年(平成7年)、当時の首相村山富市が、それまでの強権姿勢を政府を代表して謝罪し、土地収用法に基づく行政代執行による成田空港の土地強制収用の手段を放棄が確認された。この謝罪は地元の一定の評価を得て、その後二期工事への土地収用と、集団移転に応じる農民・地主が出てきた。 三里塚闘争は、それまで強制的に進めることが当たり前だった、日本の公共事業のあり方を一変させた出来事だった。
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