円卓会議後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 03:21 UTC 版)
「三里塚芝山連合空港反対同盟」の記事における「円卓会議後」の解説
「小川派」は、シンポジウムおよび円卓会議に呼ばれたものの、出席することはなかった。しかし、円卓会議終了後に内閣総理大臣及び運輸大臣あてに、これまでの空港づくりへの反省を促す書簡を送付し、運輸大臣の返書を受けた。これらを受け、代表の小川嘉吉は、1995年1月に運動の終結を宣言した。同年8月9日に行政訴訟を取り下げ、また1996年7月18日に土地売買契約を締結し、小川派の活動は終了する。1998年7月17日、小川嘉吉が死去した。 最大勢力だった熱田派も、1997年ころまでに大部分は反対運動を終了した。辺田部落の住民も1997年に集団移転した。 1997年12月7日に、「熱田派」の活動家であった相川勝重が、かつての態度を翻し「2000年までに成田国際空港平行滑走路完成」などを公約に、芝山町長選挙に当選する。2002年4月17日には、2本目の滑走路である暫定平行滑走路が運用となる。 2006年1月15日、「熱田派」の代表であった熱田一が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明する。2013年1月5日、熱田は93歳で死去した。 2017年8月9日、「北原派」の代表であった北原鉱治は95歳で死去した。 2002年の平行滑走路(B滑走路)供用開始後も、北原派を中心に成田市天神峰地区および東峰地区(東峰神社を含む)のB滑走路南端およびB滑走路誘導路の予定敷地の買収の反対運動をしている。北原派内には現在も婦人行動隊名義で運動に参加する者もいる。 旧熱田派では、ボランティア団体「地球的課題の実験村」を設立して、活動に参加している。 「北原派」とされている「三里塚芝山連合空港反対同盟」、「旧熱田派」とされている「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会〈II〉」は、活動を継続している。 なお、「旧熱田派」で唯一の地元住民である柳川は、A滑走路の使用に限っての成田空港の運用を認めており、既に供用しているB滑走路や新滑走路建設計画に対しては、反対の立場である。
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