内閣との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:29 UTC 版)
枢密院と内閣の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。とはいえ、枢密院で議案が否決されたからといって内閣が総辞職しなければならないという規定はなく、この場面で辞職に踏み切ったのは若槻の性格の弱さによるものと言われる。 似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(立憲民政党濱口雄幸)と、枢密院、海軍の軍令部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。しかし、浜口首相は元老西園寺公望や、憲法学者の美濃部達吉や佐々木惣一、世論の支持を背景として枢密院に対して断固とした態度で臨み、枢密院のボスとして知られた大物顧問官の伊東巳代治が要求した資料の提出を拒むほどであった。『東京日日新聞』をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判で内閣を擁護し、枢密院の議員は内閣の奏請で罷免できると指摘するなど健筆を振るった。こうして枢密院側が折れて浜口内閣は条約批准を達成した。 これほどの対立には至らなくとも、明治から大正にかけて山縣有朋が枢密院を盾に反政党的な策動を行っており、山縣の死後も1928年(昭和3年)の不戦条約批准問題等において策動した。
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