公務としての史料調査
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終戦の際には公試の際に海軍が撮影した多くの公式写真や厳重に管理されていた図面が焼却されたが、福井と同じような事を考えた海軍関係者は多く、当時の海軍大臣であった米内光政が軍令部作戦部長の富岡定俊に命じて戦史の史料部を海軍省に設けた。しかし占領軍の進駐とともにダグラス・マッカーサーの命令により日本側単独での戦史作成は中止され占領軍の戦史作成の補助という形になる。こうした方針の元海軍省も改組され第二復員省となり、戦史調査を行なうこととなった。 上層部が上記のような史料調査に動く中、福井の属していた艦政本部の部局長会議でも、完全なものにならなくてもよいから技術資料をできるだけ集積、調査、分析する調査事業を始めることを決定、臨時軍事費50万円を基金として第一段の技術関係史実調査をはじめた。ところが通貨の封鎖と新円への切り替え、海軍の解体、GHQへの資料提出などにより、当初計画通りの実行は不可能となった。 そのため数百人の担当者を指名し、主として各自の記憶を中心とする原稿を1946年(昭和21年)6月末期限で集めることとなり、大半の原稿が期限までに集まった。また、調査事業の継続を当面の目的とする組織として1946年(昭和21年)3月9日生産技術協会を商工省の認可法人として発足させる(なお、生産技術協会は旧海軍関係者の高齢化により、1970年代には造機部の首魁であった渋谷隆太郎の手で解散に至ったらしく、造船を含む相当数の史料が行方不明となった)。 しかし第二復員省は1946年(昭和21年)6月15日復員庁第二復員局に縮小され、1947年(昭和22年)1月には厚生省第二復員局残務処理部となる。更なる規模縮小で今度は公官庁の外へ出されることになり、史料調査会が文部省の財団法人という形で1947年(昭和22年)3月に設立された。戸高によれば史料の蒐集ははかどったものの、予算の裏づけが無い為死蔵状態の物が多かったのだという。史料調査会は1978年(昭和53年)、海軍文庫を開設する。 こうした中福井は第二復員省(著書では第二復員局)の造修課および資材課で艦船造修と艦政本部残務(技術資料作成)に従事し、その後当時旧海軍の組織を唯一継承していた海上保安庁で運輸技官として4年奉職し、1952年(昭和27年) 退官し、史料調査会に関わる事になる。
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