八旗の制度とは? わかりやすく解説

八旗の制度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 05:28 UTC 版)

清の兵制」の記事における「八旗の制度」の解説

詳細は「八旗」を参照 17世紀初期ヌルハチによる満州民族統一と、明帝国への挑戦成功の鍵となったものの一つ八旗創設であった八旗満州人のみで構成される団体で、軍事的な効率性を持つとともに経済的社会的政治的な役割併せ持っていた。遅くとも1601年それより数年早くからの可能性もある)には、ヌルハチ配下兵士たちとその家族らを「ニル」と呼ばれる常設大隊に登録させた。「ニル」というのは、女真族男たち伝統的に軍事教練戦争遂行のために編成した小部隊の名称からとったものである1607年までには、これらの大隊をさらに大きなグサ」あるいは「旗」と呼ばれる単位にまとめた。「旗」は軍旗の色(黄、白、紅、)で区別された。1615年には各旗に紅の縁取り紅旗にあっては白の縁取り)を加えた「旗」を編成して女真族軍隊として全部八旗とした。「旗」の制度においてはヌルハチ新国家敗れた他の女真部族単純に大隊として編入することで吸収できた。この統合制度によって、女真社会小さな部族単位縁組超えて再編成されることにもつながった。 清の支配万里の長城の北まで拡大し、「旗」の制度拡大続けたモンゴル系チャハルを他のモンゴル部族の力を借りて1635年破って間もなくヌルハチ息子後継者ホンタイジ新しモンゴル系家来同盟者蒙古八旗編入し、元からある満洲八旗並立させる体制とした。ホンタイジ漢人の軍を統合することにはより慎重であった1629年、彼は最初に「漢軍」(満州語: ᠨᡳᡴᠠᠨᠴᠣᠣᡥᠠ nikan cooha)1個(約3000人)を創設した1631年には、これらの漢軍に、西欧式の大砲製造・運用できる兵たちが編入され、これにより「重軍」(ujen cooha)と改名された。1633年までには、これらは20個中隊4500人になり、黒い軍旗与えられていた。これらの漢人部隊1637年に二旗に、1639年には四旗に、そして最終的に1642年八旗編成された。これらは漢軍八旗呼ばれる。 旗の序列次の通り:正黄、鑲黄、正白、正紅、鑲白、鑲紅、正藍、鑲この内、正黄、鑲黄、正白までを総称して「上三旗」と呼び皇帝直率である。その他の旗は「下五旗」と呼ばれ、五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、皇帝皇子その子孫が旗王に封ぜられていた。その中で爵位元に序列存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体代表しており、ヌルハチ直系子孫建国功績のあった皇子の子孫である親王家非公式的に「鉄帽子王」と呼ばれた家系)の親王たちがそれを担ったヌルハチ時代ホンタイジ時代初期は、これらの旗王たちが議政大臣会議と軍の最高指導部構成していた[要出典]。 上三旗 正黄旗鑲黄旗白旗下五旗 正紅旗白旗紅旗正藍旗

※この「八旗の制度」の解説は、「清の兵制」の解説の一部です。
「八旗の制度」を含む「清の兵制」の記事については、「清の兵制」の概要を参照ください。

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