兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)
「美空ひばり」の記事における「兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死」の解説
1973年、実弟が起こした不祥事により、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。 1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1985年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また1982年には、『裏町酒場』もロング・ヒットを記録する。 しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性脳腫瘍により68歳で死去。同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。 また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「銭形平次」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった大川橋蔵も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続いた。ひばりは加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増加し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。
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