兄弟の入れ代わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:26 UTC 版)
政共が生前に仮養子に指名していたのは、嫡出の同母弟(母は池田宗家の池田治政の娘)の甚次郎(奄有)で、政共が急死した際には甚次郎が末期養子として跡を継いだ。しかし、甚次郎は生来病弱で、家督相続に伴う諸行事もままならず、その都度名代を立てねばならない有様であった。甚次郎が17歳になるまで待って、その上で新たな養嗣子に家督を継がせることも考えられたが、初御目見が無事に迎えられるかさえ危ぶまれた。そこで鴨方池田家では、文政8年5月1日(1825年6月16日)、甚次郎の6か月後に生まれた(生年は翌年のため数え年では1歳下になる)庶出の弟の虎吉を身代わりにして「甚次郎政広」を名乗らせ(のち政敏、政善と改名)、密かに家督相続者のすり替えを行った。元の甚次郎は剃髪して池田栄を名乗ることになったが、こちらは「虎吉」であったことにされた。栄は天保10年(1839年)に数え29歳で没した。 以上は「池田氏系譜」の記録による。『寛政重修諸家譜』や明治政府に提出した「家系・家譜」では、政共の跡を嫡出の同母弟の政善が継ぎ、栄(政徳、幼名・虎吉)は彼らの庶出の弟であったことになっている。
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