儲君移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:40 UTC 版)
慶長3年(1598年)8月13日頃から後陽成天皇は体調を崩し、10月ごろになっても体調は回復しなかった。10月18日、病気を理由とする譲位の意向を豊臣政権に伝えたが、10月21日に皇弟の八条宮への譲位を望む旨を伝えた。多数の公卿からは譲位に対して賛同を得られたが、前関白の九条兼孝や摂家衆からは事実上後継者とされていた良仁親王を廃することについては反対する意見が述べられた。この時期秀吉はすでに没しており、豊臣政権の大老徳川家康は天皇の意思を尊重すると述べたが、前田利家・前田玄以は良仁親王に譲位等と意見が分かれたことが記されている。後陽成の意図は第三皇子の三宮への譲位にあったとみられている。最終的には家康から譲位は無用との奏上がなされた。後陽成の病は慶長3年(1598年)4月ごろに快方に向かい、8月頃に回復した。一方でこの頃は秀吉の神格化についても協議が行われていたが、秀吉の遺志である「新八幡・正八幡」としての神号授与は達成されず、「豊国大明神」の神号を下している。8月14日には参内した家康と対面したが、これは秀吉やそれ以前の室町将軍の参内とほぼ同じ形式だった。12月には諱を「周仁」と改めている。 慶長5年(1600年)、会津征伐に向かう家康に対して勅使を送り、さらし100反を贈った。関ヶ原の戦いの際には、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせた。これにより歌道尊重の帝王として名を残している。12月には関白・左大臣に九条兼孝が還任され、秀吉以来の朝廷人事は大きく変更された。慶長6年(1601年)には禁裏御料の増額と山城国内への移転が行われ、禁裏御料は1万石となった。またこの年には天正6年以来中絶していた年中行事としての叙位が後陽成天皇の意思によって再開されている。また家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌を京都所司代に任じて天皇の動きを監視した。慶長6年3月5日(1601年4月7日)、良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第三皇子政仁親王を儲君として立てた。
※この「儲君移行」の解説は、「後陽成天皇」の解説の一部です。
「儲君移行」を含む「後陽成天皇」の記事については、「後陽成天皇」の概要を参照ください。
- 儲君移行のページへのリンク