健康面・死因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
左脚に関する傷病歴 7歳の時、河中に落ちて左の膝を激しく打ち、後に(天文12年(1543年)頃)刈谷田川で長尾俊景と戦闘した際に、左の内股に矢傷を受け、大きな傷痕を残したという。また、永禄4年から5年(と見られる)に、左脚が気腫になり、歩く時に引きずる様子が見られた。戦場では杖代わりに三尺ばかりの青竹を引っ提げて、軍兵を指揮したという(『常山紀談』)[信頼性要検証]。 その他の傷病歴 永禄2年(1559年)6月、二度目の上洛中に腫れ物を患う。腫物医の診断によると癰(よう)という重度のおできで、気血の滞留が病因と診られた。背中に出来た腫れ物を家臣たちが口で吸い出して治療にあたり、ほどなく治癒したと伝わる。 永禄4年(1561年)、関東進撃中に腹痛を患っている。 永禄8年(1565年)36歳の時、瘧(熱病)に罹る(花ヶ前盛明 年表)。卒去したとの流言蜚語が乱れ飛んだ。また、左脚が不自由になったのは、この際に併発した急性関節炎によるものとする説もある。 元亀元年(1570年)10月、41歳の時に軽い中風を発症した。 死因 生前の謙信は大の酒好きだったことで知られ、過度の飲酒や食生活(塩分の摂り過ぎなど)による糖尿病性高血圧が原因の脳血管障害とみられ定説となっている。謙信の史料を見た医師たちの所見も、「高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、躁鬱気質」だったとする見解が多い。または、胃癌もしくは食道癌と脳卒中が併発したとする説もある。伊東潤と乃至政彦の共著『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y)163-165頁では、景勝が遺言で後継者に指名された旨を諸方に知らせており、謙信に遺言を残せる意識はあったと書状の受け取り側が解釈することを前提としており、書状にある「虫気」は「ちゅうき」でなく「むしけ」すなわち重い腹痛と解釈して、急性膵炎や腹部大動脈瘤(破裂)などが死因の可能性があると推論している。
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