個人経営の図書館(1952-1963)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 01:22 UTC 版)
「クローバー子供図書館」の記事における「個人経営の図書館(1952-1963)」の解説
1952年(昭和27年)3月8日、金森好子(かなもり こうこ)はクローバー子供図書館を桑野清水台(現・郡山市開成)の自宅に開設し、自費で買い集めた児童書を地域の子供たちに向けて開放する活動を開始した。当時の日本では悪書追放運動に伴い、「子供たちによい本を」との考えから個人が子供のために自宅を開放して読書活動を行う「家庭文庫」の活動が起こり始めた時期であり、クローバー子供図書館も家庭文庫の範疇にあった。とは言え、当時は図書館員の間でも児童サービスの重要性を認識している人は少なく、児童図書館研究会の発足よりも1年早かったことから、非常に先駆的な活動であったと言える。開館は毎週日曜日のみで、自室と廊下に並べた176冊の本を地元の小中学生に読んでもらうという形式の図書館であった。なお、館名の「クローバー」は、好子の自宅がクローバーに囲まれていたことに由来する。同年12月25日、クリスマス会を開催し、以後毎年開催する恒例行事となった。 1953年(昭和28年)4月より個人(子供)への貸し出しを開始し、同年7月25日に図書館報「クローバー子供新聞」を創刊した。翌1954年(昭和29年)には土曜日にも開館するようになる。好子の活動は日本中の児童書関係者に大きな刺激を与え、1955年(昭和30年)3月17日には品川区立図書館大崎分館で「金森好子氏を囲む懇談会」が開催されたほか、家庭文庫が日本各地に誕生し、公共図書館には児童室が設置されるようになった。 1955年(昭和30年)になると、東京在住の有志により「クローバー子供図書館を育てる会」が発足し、図書の寄贈運動を展開した。同会は1960年(昭和35年)まで図書を寄贈し続け、図書館を支えた。1955年(昭和30年)6月26日には、好子の父であり郡山精神病院(現・針生ヶ丘病院)の院長であった金森五郎が自邸内に独立した図書館を建設した。同時に、大人や団体への貸し出しも開始した。この頃には、蔵書数8,000冊、会員数400人の規模となっており、お話の会や歌の会などの行事を開き、引き続きクローバー子供新聞を発行していた。図書館は木造平屋建てで、床面積は20坪(≒66.1 m2)ないし30坪(≒99.2 m2)であった。1956年(昭和31年)より図書館の運営に好子のほかにもう1人が加わることになった。 当時の郡山市には、すでに公立の郡山市図書館が存在したが、休日を中心に小中高生であふれ返っており、漸次蔵書を増やすも不足がちであった。1959年(昭和34年)1月、アジア財団から2万円の寄付を受け、名倉こどもの会代表の森永薫とともに「名倉バス文庫こまどり」と名付けた移動図書館の運用を開始した。バス文庫の開館式には児童文学者の村岡花子が東京から駆け付け、地元住民による「名倉バス文庫こまどりの歌」まで作られて華々しくデビューしたが、活動は2年弱で終了した。
※この「個人経営の図書館(1952-1963)」の解説は、「クローバー子供図書館」の解説の一部です。
「個人経営の図書館(1952-1963)」を含む「クローバー子供図書館」の記事については、「クローバー子供図書館」の概要を参照ください。
- 個人経営の図書館のページへのリンク