信長秀吉との戦いとは? わかりやすく解説

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信長・秀吉との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:05 UTC 版)

小早川隆景」の記事における「信長・秀吉との戦い」の解説

天正2年1574年)に入ると、織田信長勢力毛利氏勢力範囲にまで迫るようになるこの年浦上宗景織田氏支援を受け、毛利氏戦い交え天正3年1575年)には三村元親織田方に通じて裏切る。隆景は三村氏討伐し、豊後国大友宗麟信長通じて侵攻してくると、水軍率いて大友軍と戦った天正4年1576年)、鞆に落ち延びてきた室町幕府15代将軍・足義昭の強い誘いもあり、毛利氏織田氏断交。元春が山陰、隆景が山陽担当し第2次信長包囲網一角として織田方と戦うこととなる。信長包囲網中心的存在であった石山本願寺救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍村上水軍主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍破った天正6年1578年)、第二次木津川口の戦い鉄甲船配備した九鬼水軍敗れ制海権を失う。同年上洛目指していたといわれる上杉謙信急死し天正8年1580年)には石山本願寺信長講和大坂退去し信長包囲網崩壊する。そして、織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉硬軟織り交ぜた攻略次第激しさ増し毛利氏押され続けることとなる。 天正7年1579年)には備前国宇喜多直家織田方に離反。隆景を総大将備前辛川へと攻め込む宇喜多忠家戸川達安らに大敗喫しまともな反撃できないまま退却余儀なくされる辛川崩れ)。さらに伊賀久隆の守る虎倉城を攻めるも下加茂急襲されまたしてもまともな反撃すらできないまま手痛い連敗喫する加茂崩れ)。 天正8年1580年)、2年間にわたり織田方に抗戦三木合戦)してきた播磨三木城陥落別所長治自害する天正9年1581年)、因幡鳥取城餓死者が出る籠城戦の末に陥落し城主吉川経家自害している。 天正10年1582年)、清水宗治籠る備中高松城包囲され、隆景は輝元・元と共に毛利氏主力3率いて救援赴いた備中高松城の戦い)。しかし、この時点ですでに3秀吉軍と兵力拮抗しており、さらに3月武田氏滅ぼした信長本軍備中向けて出兵準備進めていた。隆景は、毛利氏織田氏に勝つ見込みが薄いと判断していたためか、安国寺恵瓊通じて秀吉和睦交渉秘密裏に行う。 6月本能寺の変起きて信長死去すると、秀吉明智光秀討伐のため、毛利方に本能寺の変秘したままで和睦を結び、畿内引き返した中国大返し)。なお本能寺の変伝え報せ毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家覚書案文)から確認できる。すでに秀吉調略の手伸びており、疑心暗鬼に陥っていた毛利軍羽柴軍を追撃することができなかった。毛利氏将士秀吉欺かれたとして一斉に奮起し好機乗ずべしと隆景に迫って秀吉との誓約破棄し追撃して京都攻め込むことを願い出た。しかし、隆景は分国内の形勢察し誓紙血痕未だに乾かないうちにこれを破るのは武士の恥として、将士激昂抑えてこれを許さなかったとされるが(『吉川文書』『川角太閤記』『陰徳記』)、実際のところは兵力からいっても、毛利中国大前進、大追撃は無理であったのが実情である。 同年、隆景は居城新高山城から瀬戸内海面した三原城移している。

※この「信長・秀吉との戦い」の解説は、「小早川隆景」の解説の一部です。
「信長・秀吉との戦い」を含む「小早川隆景」の記事については、「小早川隆景」の概要を参照ください。

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