信長・秀吉との戦い
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天正2年(1574年)に入ると、織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになる。この年、浦上宗景が織田氏の支援を受け、毛利氏と戦いを交え、天正3年(1575年)には三村元親が織田方に通じて裏切る。隆景は三村氏を討伐し、豊後国の大友宗麟が信長と通じて侵攻してくると、水軍を率いて大友軍と戦った。 天正4年(1576年)、鞆に落ち延びてきた室町幕府15代将軍・足利義昭の強い誘いもあり、毛利氏は織田氏と断交。元春が山陰、隆景が山陽を担当し、第2次信長包囲網の一角として織田方と戦うこととなる。信長包囲網の中心的存在であった石山本願寺を救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍を破った。 天正6年(1578年)、第二次木津川口の戦いで鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗れ、制海権を失う。同年、上洛を目指していたといわれる上杉謙信が急死し、天正8年(1580年)には石山本願寺が信長と講和し大坂を退去して信長包囲網は崩壊する。そして、織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の硬軟織り交ぜた攻略は次第に激しさを増し、毛利氏は押され続けることとなる。 天正7年(1579年)には備前国の宇喜多直家が織田方に離反。隆景を総大将に備前辛川へと攻め込むが宇喜多忠家や戸川達安らに大敗を喫しまともな反撃もできないまま退却を余儀なくされる(辛川崩れ)。さらに伊賀久隆の守る虎倉城を攻めるも下加茂で急襲されまたしてもまともな反撃すらできないまま手痛い連敗を喫する(加茂崩れ)。 天正8年(1580年)、2年間にわたり織田方に抗戦(三木合戦)してきた播磨三木城が陥落、別所長治が自害する。 天正9年(1581年)、因幡鳥取城が餓死者が出る籠城戦の末に陥落し、城主・吉川経家が自害している。 天正10年(1582年)、清水宗治が籠る備中高松城が包囲され、隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、この時点ですでに3万の秀吉軍と兵力は拮抗しており、さらに3月に武田氏を滅ぼした信長の本軍が備中に向けて出兵の準備を進めていた。隆景は、毛利氏が織田氏に勝つ見込みが薄いと判断していたためか、安国寺恵瓊を通じて秀吉と和睦交渉を秘密裏に行う。 6月、本能寺の変が起きて信長が死去すると、秀吉は明智光秀討伐のため、毛利方に本能寺の変を秘したままで和睦を結び、畿内へ引き返した(中国大返し)。なお本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる。すでに秀吉の調略の手が伸びており、疑心暗鬼に陥っていた毛利軍は羽柴軍を追撃することができなかった。毛利氏の将士は秀吉に欺かれたとして一斉に奮起し、好機乗ずべしと隆景に迫って秀吉との誓約を破棄し、追撃して京都に攻め込むことを願い出た。しかし、隆景は分国内の形勢を察し、誓紙の血痕未だに乾かないうちにこれを破るのは武士の恥として、将士の激昂を抑えてこれを許さなかったとされるが(『吉川文書』『川角太閤記』『陰徳記』)、実際のところは兵力からいっても、毛利の中国大前進、大追撃は無理であったのが実情である。 同年、隆景は居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城に移している。
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