信教の自由と繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 06:23 UTC 版)
「ペンシルベニア植民地」の記事における「信教の自由と繁栄」の解説
ウィリアム・ペンとその仲間のクエーカー教徒はペンシルベニア政府にその宗教的価値観を強く植え付けた。最も急進的な信条は全ての者に対する信教の自由と先住民族に対する公平な取扱いだった。この過度の寛容性によって、他の植民地大半よりも地元の先住民族(主にレナペ族やサスケハナ族)とかなり健全な関係を作った。これがフィラデルフィアをアメリカの最も重要な都市として急速に成長させ、また内陸のペンシルベニア・ダッチ・カントリーでは、ドイツ人で宗教や政治の避難民が肥沃な土地で繁栄し文化的創造性の精神を育むことを助勢した。初期集団にはメノナイトがおり、1683年にジャーマンタウンを設立した。1740年に設立されたノースキル・アーミッシュ開拓地は、アメリカでは最初のアーミッシュによる開拓地とされている。 1737年、先住民族のレナペ族とその土地を求めて政治的親善のための大きな取引を行った。植民地監督者は1680年代に遡って、レナペ・デラウェア族が、デラウェア川とリーハイ川の合流点(現在のライツタウン近く)に始まり、「1人の男が1日半で歩ける所まで」の土地を売却すると約束したことを主張した。この買収は「歩行買収」と呼ばれることになった。文書は偽造の可能性が強いが、レナペ族にはそれが分からなかった。植民地書記官ジェイムズ・ローガンができるだけ多くの土地を入手するための行動に移り、植民地でも最も速く走ることのできる者3人を見付けて雇い、植民地の他のメンバーが予め切り開いていた土地を購入するために走らせた。その速度は驚異的であり、1人のランナーだけでも実際に驚くべき70マイル (113 km)を「歩行」した。このことでペンは現在のペンシルベニア北東部に120万エーカー (4,860 km2)の土地を手に入れたが、その広さは大まかにロードアイランド州の広さに匹敵するものだった。この購入地域は現在、パイク郡、モンロー郡、カーボン郡、スクーカル郡、ノーサンプトン郡、リーハイ郡およびバックス郡となっている。レナペ族はその後の19年間、条約を無効にするために戦ったが無駄だった。レナペ・デラウェア族はシャモキン渓谷やワイオミング渓谷への移住を強いられたが、そこは既に移住してきた他の種族によって混み合っていた。 1751年は植民地にとって縁起の良い年になった。イギリス領アメリカでは最初の病院であるペンシルベニア病院と、私立ペンシルベニア大学の前身であるフィラデルフィア・アカデミー・アンド・カレッジが開設された。 クエーカー教徒は奴隷制に反対していたものの、1730年までに約4,000人の奴隷がペンシルベニアに連れてこられた。1780年のペンシルベニア漸次奴隷制廃止法はアメリカ合衆国になった植民地の中で最初の解放法律だった。1790年の国勢調査ではアフリカ系アメリカ人の数が約1万人にまで増加していたことを示しており、そのうち約6,300人が自由を与えられた。
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