作詞家の活動・おニャン子クラブのブレーンとしての活動
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「秋元康」の記事における「作詞家の活動・おニャン子クラブのブレーンとしての活動」の解説
放送作家業に物足りなさを感じ、また放送作家業の将来性に不安を感じていたところ、亀渕からニッポン放送の子会社だったパシフィック音楽出版(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎を紹介され、作詞を手掛けるようになる。これらの経緯から、作詞家としてはフジパシフィックと契約している。 1981年、フジテレビ系で放送されたアニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」で初めて作詞家としてクレジットされる。 アーティストに初めて提供した作品は、Alfeeのシングルレコード「通り雨」(1981年10月21日発売)のB面「言葉にしたくない天気」である。これ以降、作詞家としても活動を開始した。1982年の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」、1983年の長渕剛「GOOD-BYE青春」で作詞家としての知名度を獲得した。 放送作家としてテレビ番組『ザ・ベストテン』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』の構成を担当して高視聴率を挙げる一方、さまざまなジャンルの楽曲の作詞を手掛ける。小泉今日子「なんてったってアイドル」、とんねるず「雨の西麻布」などの楽曲をヒットさせる。 1985年からは女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」の楽曲を手掛け、全楽曲の作詞を担当した。後に総合プロデューサーとして関わるAKB48とは異なり、おニャン子クラブは先述の『夕やけニャンニャン』が最初にありきで、秋元自身は、おニャン子クラブについては共同作業であるとし、自分は仕掛け人ではないと説明している。また、国生さゆりは「構成作家の秋元さんはスタッフの一員、いい意味で他のスタッフと同列だった」と述べている。1986年のオリコンウィークリーチャート52週のうち36週でおニャン子クラブ関係の楽曲が1位を獲得。1987年には長者番付の「その他」部門で16位(納税額1億61万円)となる。 1988年、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚した。結婚と同時に渡米し、ニューヨークに1年半ほど滞在。帰国後、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当した。これにより作詞家としての地位を不動のものにした。
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