作詞家へ
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1941年、NHKに入局。郡山放送局(当時)に勤務し、一時アナウンサーも務める。 1942年、NHKから毎日新聞社(東京)に転職し地元の福島支局記者となる。 1943年、小柄で脊椎が悪くいつもギプスを着用していた灯至夫にも召集令状が下る。海軍に配属されたものの病気になり、海軍病院に入院し召集解除されている。 1948年、毎日新聞東京本社出版局に転勤し、毎日グラフ記者として活躍。 1949年、たまたま手がけることとなった『母燈台』(三益愛子主演映画の主題歌。歌手:霧島昇)の作詞をきっかけに、日本コロムビア株式会社の専属作詞家となる。なお、作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており1972年に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。 1963年、『高校三年生』他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞。 1964年、童謡『ワン・ツー・スリー・ゴー』により日本レコード大賞童謡賞を受賞。 1982年、地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける。 1988年、芸術文化功労により勲四等瑞宝章受章。 1993年、福島県田村郡小野町に「丘灯至夫記念館」(ふるさと文化の館内)がオープンし2001年に小野町名誉町民第1号となる。 2002年、郡山駅前に郡山商業高校同窓会(伊東善之進会長)を中心とする 実行委員会により『高校三年生歌碑』建立(4月13日) 2009年11月24日、腎不全のために東京都内の病院にて永眠。92歳没。
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