作品・俳論
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曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(『少年』、1955年) 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年) 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(『金子兜太句集』、1961年) 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン(『金子兜太句集』、1961年) 人体冷えて東北白い花盛り(『蜿蜿』、1968年) 霧の村石を投(ほう)らば父母散らん(『蜿蜿』、1968年) 暗黒や関東平野に火事一つ(『暗緑地誌』、1971年) 梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』、1981年) おおかみに蛍が一つ付いていた(『東国抄』、2001年) 夏の山国母いてわれを与太という(『東国抄』、2001年) などが代表句として知られる。素朴で骨太の叙情、スローガン的とも言われるダイナミックな文体を特徴とし、戦後俳壇の中心的存在として伝統派の飯田龍太と並び称される 戦後参加した社会性俳句については、沢木欣一が社会主義イデオロギーを根底にもった句と規定したのに対して、「社会性は態度の問題」であり「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする「社会的な姿勢」が意識的に取られている態度」であるという見解を示す(1954年、「風」誌のアンケート)。1957年の「俳句の造型について」では、従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱。のち1960年に、「創る自分」を発展的に解消した「造型俳句六章」へと繋がった。この前後から前衛俳句の旗手とも見なされ、中村草田男、山本健吉らの俳句観と対立し論争も行っている。また小林一茶、種田山頭火を論じ、漂泊詩人の再評価も行った。 主宰を務める「海程」の結社活動においては、「俳諧自由」をキーワードに個性重視の方針をとり、門人を自身の俳句観に従わせるのではなく、それぞれの個性を発揮できるようにするためのアドバイザーとしての立場に身を置いているとしている。 我流の個性的な書も人気を得ている。2015年7月・8月の平和安全法制反対集会などで掲げられたプラカード「アベ政治を許さない」は、澤地久枝の依頼を受けて揮毫したものである。 最晩年の2018年、窪島誠一郎(「無言館」館主)とマブソン青眼(俳人)と共に「俳句弾圧不忘の碑」(「無言館」近辺建立)の筆頭呼びかけ人となり、その碑文を揮毫。
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