作品・俳論とは? わかりやすく解説

作品・俳論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 02:25 UTC 版)

金子兜太」の記事における「作品・俳論」の解説

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(『少年』、1955年) 水脈(みお)の果(はて)炎天墓碑を置きて去る(『少年』、1955年) 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(『金子兜太句集』、1961年彎曲火傷かしょう)し爆心地マラソン(『金子兜太句集』、1961年人体冷えて東北白い花盛り(『蜿蜿』、1968年石を投(ほう)らば父母散らん(『蜿蜿』、1968年暗黒や関東平野に火事一つ(『暗緑地誌』、1971年梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』、1981年おおかみに蛍が一つ付いていた(『東国抄』、2001年夏の山国母いてわれを与太という(『東国抄』、2001年) などが代表句として知られる。素骨太叙情スローガン的とも言われるダイナミックな文体特徴とし、戦後俳壇中心的存在として伝統派飯田龍太並び称される 戦後参加した社会性俳句については、沢木欣一社会主義イデオロギー根底にもった句と規定したに対して、「社会性態度問題」であり「自分社会的関連のなかで考え解決しようとする「社会的な姿勢」が意識的に取られている態度」であるという見解を示す(1954年「風」誌のアンケート)。1957年の「俳句造型について」では、従来俳句自分と対象との直接結合による素朴な方法よるものとした上で自分と対象との間に「創る自分」という意識介在させ、暗喩的なイメージ獲得する造型」の方法提唱。のち1960年に、「創る自分」を発展的に解消した造型俳句六章」へと繋がったこの前後から前衛俳句旗手とも見なされ、中村草田男山本健吉らの俳句観と対立し論争行っている。また小林一茶種田山頭火論じ漂泊詩人再評価行った主宰務める「海程」の結社活動においては、「俳諧自由」をキーワードに個性重視方針をとり、門人自身俳句観に従わせるではなくそれぞれの個性発揮できるようにするためのアドバイザーとしての立場に身を置いているとしている。 我流個性的な書も人気得ている。2015年7月8月平和安全法制反対集会などで掲げられプラカードアベ政治を許さない」は、澤地久枝依頼受けて揮毫したものである。 最晩年2018年窪島誠一郎(「無言館館主)とマブソン青眼俳人と共に俳句弾圧不忘の碑」(「無言館近辺建立)の筆頭呼びかけ人となり、その碑文揮毫

※この「作品・俳論」の解説は、「金子兜太」の解説の一部です。
「作品・俳論」を含む「金子兜太」の記事については、「金子兜太」の概要を参照ください。

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