伊賀日置系統
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日置弾正政次と同じ血統であるか、もしくは教えを受けたとされる、日置弥左衛門範次を祖とする流れ。 竹林派(ちくりんは) 石堂竹林坊如成を祖とする。姓は北村・喜多村・石塔とも。竹林流と称する場合もある。如成ははじめ僧侶になり、竹林坊と号して近江に居住した。この時期に吉田重政の技を伝え聞いたとも、吉田家の祈願僧となって弓術修行に没頭したとも伝えられる。一方竹林派の伝書では日置弥左衛門範次 - 安松左近吉次 - 同新三郎良清 - 弓削甚左衛門正次 - 同弥六郎繁次 - 石堂竹林坊如成 (氏名には異説あり) という系譜が記載されるが、如成以前は不明な点が多い。如成は後に清洲藩主松平忠吉に仕え藩士らを指導したという。次男の貞次(弥蔵)が技術を伝え、尾張藩成立後も引き続き栄えた。子孫は郡山藩に仕えた。(正統竹林派) 貞次門下から尾張藩士の岡部忠次(藤左衛門)、長屋忠久(忠左衛門)、長屋忠重(六左衛門)らが、さらに忠重門下からは京都三十三間堂の通し矢で名高い星野茂則(勘左衛門)が輩出し、各家は代々技術を伝えた。これら尾張の系統が尾州竹林派である。 また貞次門下の野村勝吉(喜左衛門)、瓦林(尾林)成直(与次右衛門)は紀伊藩に竹林派を伝えた。射法訓作者の吉見経武(台右衛門、法名:順正)、通し矢天下一の和佐範遠(大八郎)らが輩出した。これが紀州竹林派である。 他に高松藩、熊本藩など多くの藩に伝わった。星野茂則から江戸に伝わった系統は旗本により伝承され(江戸竹林派)、後に本多流となった。 通し矢は堂射ともいう。江戸時代前期に流行し、特に尾張藩と紀伊藩が鎬を削ったことから両藩の竹林派も栄えた。また記録更新のため射法・用具の研究・改良が進んだ。竹林派は堂射と縁の深い系統ではあるが、的前射法も存在し、また通し矢を禁じた系もあることから、通し矢専門の流派ではない。 如成は僧侶であったため、竹林派の思想・用語には仏教の影響がみられる。例えば現在の射法八節にも採用されている「会」「離」は、仏教語の会者定離にちなむ。一貫流 大野又兵衛一貫(文化13年没、63歳)を祖とする。一貫は若桜藩(鳥取藩支藩、鳥取西館新田藩)藩士(130石)で、竹林派系統の大口流大口子積に師事した。寛政年間に剣・槍・居合術も含む一貫流を創始した。 本多流 竹林派 の本多利実(天保7年(1836年) - 大正6年(1917年))を祖とする。明治大正期に成立。日置流の系統ながら正面で打起すのが特徴。利実は、斜面打起しであった竹林派に正面打起しを導入するなど射法に改良を加え、現代の射法に強い影響を与えた。 詳細は「本多流」を参照
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