伊賀日置系統とは? わかりやすく解説

伊賀日置系統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:50 UTC 版)

日置流」の記事における「伊賀日置系統」の解説

日置弾正政次と同じ血統であるか、もしくは教え受けたとされる日置弥左衛門範次を祖とする流れ竹林派ちくりんは) 石堂竹林坊如成を祖とする。姓は北村喜多村石塔とも。竹林流と称する場合もある。如成ははじめ僧侶になり、竹林坊と号して近江居住した。この時期吉田重政の技を伝え聞いたとも、吉田家祈願となって弓術修行没頭したとも伝えられる一方竹林派伝書では日置弥左衛門範次 - 安松左近吉次 - 同新三郎良清 - 弓削左衛門正次 - 同弥六郎繁次 - 石堂竹林坊如成 (氏名には異説あり) という系譜記載されるが、如成以前不明な点が多い。如成は後に清洲藩松平忠吉仕え藩士らを指導したという。次男貞次弥蔵)が技術伝え尾張藩成立後引き続き栄えた子孫郡山藩仕えた。(正統竹林派貞次門下から尾張藩士の岡部忠次藤左衛門)、長屋忠久(忠左衛門)、長屋忠重(六左衛門)らが、さらに忠重門下からは京都三十三間堂通し矢名高い星野茂則(勘左衛門)が輩出し、各家は代々技術伝えた。これら尾張系統尾州竹林派である。 また貞次門下野村勝吉(喜左衛門)、瓦(尾)成直(与次右衛門)は紀伊藩竹林派伝えた射法作者吉見経武(台右衛門法名順正)、通し矢天下一和佐範遠大八郎)らが輩出した。これが紀州竹林派である。 他に高松藩熊本藩など多くの藩に伝わった星野茂則から江戸伝わった系統旗本により伝承され江戸竹林派)、後に本多流となった通し矢堂射ともいう。江戸時代前期流行し、特に尾張藩紀伊藩鎬を削ったことから両藩の竹林派栄えた。また記録更新のため射法用具研究改良進んだ竹林派堂射と縁の深い系統ではあるが、的前射法存在し、また通し矢禁じた系もあることから、通し矢専門流派ではない。 如成は僧侶であったため、竹林派思想・用語には仏教影響みられる例え現在の射法八節にも採用されている「会」「離」は、仏教語の会者定離にちなむ。一貫流 大野又兵衛一貫文化13年没、63歳)を祖とする。一貫若桜藩鳥取藩支藩鳥取西館新田藩藩士130石)で、竹林派系統大口流大口子積に師事した寛政年間剣・槍居合術も含む一貫流創始した本多流 竹林派本多利実天保7年1836年) - 大正6年1917年))を祖とする。明治大正期成立日置流系統ながら正面で打起すのが特徴。利実は、斜面打起しであった竹林派正面打起し導入するなど射法改良加え現代射法に強い影響与えた詳細は「本多流」を参照

※この「伊賀日置系統」の解説は、「日置流」の解説の一部です。
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