伊賀忍者との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)
高虎は慶長19年(1614年)、伊賀郷士10名を「忍び衆」として登用し、上野城下に屋敷を与えた(忍町)。また「下人」を間諜活動に使っていたとされる。 高虎の死後、正保2年(1645年)に「忍び衆」は聞こえが悪いため「伊賀者」に改称され20名となるが、享保2年(1717年)に16名に減らされ加番奉行の役宅に入れられた。 実際に高虎が命じた役目は参勤交代の警固・御殿や城内の監視・武士や町人、百姓の観察であったとされる。幕末には異国船探索も命じられていた。 伊賀では670ヶ所に屋敷跡が確認されており、藩内では「無足人(足すことの無い士)」として扱われた。これは苗字帯刀が許されるが俸禄のない郷士制度であり普段は半農半士として農業に従事していた。寛保元年(1741年)の記録では1900名余り、天明3年(1783年)には1200名余り確認されている。
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