企業、社会活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 06:50 UTC 版)
1910年10月、日韓併合で大韓帝国が亡びると官職を捨て、商業に戻った。一介の開城商人として企業を設立した。近代化過程で高麗人参の品種を改良して耕作方法を改善するなど高麗人参栽培と販売を企業型で発展させた。1912年、永信社設立参加を皮切りに、高麗蔘業株式会社と開城電気株式会社、金正浩が建てた松高実業場で大株主や取締役を歴任した。1921年発刊の《朝鮮銀行会社要録》は3個以上会社の取締役を兼職した人物として京畿道地域では20人の企業人を挙げ、そのなかに含まれている。開城電気株式会社は韓国最初の民族系電気会社でもある。開城電気株式会社の創立には大株主で参加、取締役に就任した。1920年からは高麗蔘業の大株主として活動して投資を増額した。 1923年4月、開城貞和女学校に後援金1千ウォンを寄付し、以後貞和女学校の財団理事として活動した。その年11月23日、開城郡松都面協議会議員(住民自治委員)に当選した。1924年3月京畿道評議員選挙に出馬したが落選した。4月22日開城電気取締役理事になった。その年10月開城文廟司成に推戴された。1924年には開城郡立図書館の建立、開館を後援、11月3日図書館開館式に参加して祝辞を朗読した。 1929年には開城醸造株式会社を設立し、1930年には松都ゴム工業株式会社監査役を引き受けた。1934年と1936年には自分の号を取った春圃社と開城三業株式会社をそれぞれ創立した。開城高麗人参組合を立てて第2代組合長を務め、中国と東南アジアを巡回して高麗人参の海外売り口を開拓した。1936年、西鮮合同電気株式会社に強制併合されて開城電気株式会社取締役で退いた。 高麗人参耕作の功労を認められて多くの表彰を受け、朝鮮総督府が1935年に編纂した《朝鮮功労者名鑑》にも朝鮮人功労者353人に収録されている。1938年に開城商会を創立するなど1930年代後半までも活動を続け、後に第一共和国で農林部長官を務めた息子孔鎮恒が高麗人参畑と企業を受け継いで経営した。 開城商工会議所議員でも活動する1933年7月21日退任した。
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