他の史跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 15:03 UTC 版)
アクスムのその他の見どころに皇帝ファシリデス(英語)の時代のシオンのマリア教会(英語)(1665年献堂)があリ、創建時はエザナ王の時代にさかのぼる。最初の礼拝堂は何度か増築を重ね、ついに身廊が12列ある壮麗な建築になったという。ガディットに焼かれてから再建、1500年代にアダルとの戦役Abyssinian–Adal war(英語)で破壊された。皇帝 Gelawdewos(英語) が建て直しに取り掛かり(完成は弟で皇位継承者のミナス帝Menas of Ethiopia、その建物を皇帝ファシリデス Fasilides が新しく建て替え、現在に至るという。マリア教会は男性信者のみ堂内で礼拝できる(ガディットが本来の礼拝堂を焼き落とした時の因縁が残るとも伝わっている。) 隣に立つ教会は「新シオンのマリア教会」The New Cathedral of St. Mary of Zionと呼ばれる。エチオピアをファシストの手から守ってほしいと祈り、願いがかなえられた皇帝ハイレ・セラシエ1世が1955年、ネオ・ビザンチン様式を採用して着工させた。こちらは女性の礼拝を受け入れている。イギリス女王エリザベス2世のエチオピア公式訪問を受けた時期に新堂の献堂式を迎えたハイレ・セラシエは、外交日程を中座して教会へおもむくと自ら祈りを捧げて、エチオピア帝国にとってどれほど重要な存在であるか示した。数日後にイギリス女王もこの教会を訪れている。 新旧のマリア教会に挟まれた小礼拝堂は新堂と同時に建てられた通称「契約の書の礼拝堂」The Chapel of the Tabletである。既に触れたように「契約の聖櫃」を納めてあったとされ、皇帝の愛妾 Menen Asfaw が自らの財力で建てさせた。ここに住み込んで仕える修道士以外、エチオピア正教会の司祭であっても足を踏み入れることは許されず、帝政時代の皇帝のみが堂内で礼拝した。この小礼拝堂と両マリア教会は巡礼の地であり、エチオピアの正教徒にとって最も位の高い聖地とされている。 アクスムには考古学ならびに民俗学の博物館があり、碑文をサベ語(英語版)、ゲエズ語、古代ギリシャ語で併記したエザナストーンは、古代エジプトのロゼッタ・ストーンを想起させる。 バゼン王墓(英語)とは巨石建造物で、この街に残る最古の人造物の一つと見なされる。現在では貯水槽に転用されたシバの女王の浴槽(英語)は、地元の伝承でシバの女王の住まいがアクスムにあったとされることに呼応する。古代の王宮にはタアカ・マリヤム宮殿(英語)(4世紀)、デュングル宮殿(英語)(6世紀)の遺跡が公開されている。ペンタレオン修道院(英語)、リカノス修道院(英語)という宗教施設の遺構、あるいは天然の岩を削った石像でスフィンクスに似たゴベドラのライオン(英語)の彫像(英語)も遺され、頭部は破壊された。
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