人称に関わる話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:54 UTC 版)
『水滸伝』は各地に伝わる逸話を集積したこともあり、また登場人物の出身も様々であるため、人物の一人称表現に関してもバリエーションが見られる。現代中国語普通話で一人称はもっぱら「我」が用いられるが、かつての中国語では一人称は多数用いられた。『水滸伝』でもたとえば呉用は知識人らしく「小生」を用いるなど、性格設定による人称の違いも見られる。 「俺(アン)」は本来は一人称複数(われわれ)を意味していたが、明代に入る頃から尊大な一人称として用いられることが多くなり、複数形としては所有格(我々の、うちの)のみで用いられる傾向が強くなった。『水滸伝』本文では最初に登場する史進が「俺」を尊大な一人称として用いる人物である。しかし、物語が林冲が活躍する第8回以降にうつると、林冲は複数所有格の意味で「俺」を用いている。林冲の活躍が終わる第12回以降では再び一人称としての「俺」が用いられるようになる。このことからも林冲故事が前後の部分から独立しており、後から挿入されたことがうかがえる。同様のことは武松を主人公とする第23回から32回にかけての「武十回」にも言える。武松は「俺」を用いず、さらに尊大な一人称である「老爺(ラオイエ)」を使っており、逆に他の部分ではこの一人称はほとんど用いられない。武十回もまた、後からの挿入部分であると思われる。 また関西(陝西省)方言の一人称である「洒家(サーチャ)」を用いる人物は限られており、楊志や魯智深など少数である。楊志は第12回この一人称を用い身の上話(花石綱の失敗)を語るが、これは『宣和遺事』からの設定を引き継いだものである。しかしこの話を語っている場所は梁山泊(山東)であるにもかかわらず、語り初めで「この関西に流れ落ちております」という台詞がある。これは楊志の逸話が元々関西地方を舞台にした話として語られたことの残滓と思われる。またもう一人「洒家」を用いる人物である魯智深は第5回から6回にかけて赤松林(楊志が生辰綱を運ぶルート上の地点でもある)の近くで盗賊を倒す逸話があるが、馮夢竜(1574年 - 1646年)が当時の白話小説をまとめた三言の一つ『警世通言』の中の「趙太祖千里送京娘」で趙公子(宋太祖趙匡胤のこと)が赤松林で盗賊を倒す逸話との類似が認められる。この趙公子もまた「洒家」を用いており、「趙太祖千里送京娘」と『水滸伝』の魯智深説話は同じ由来を持つ別分岐の話ではないかと推測される。 このように人称や語彙の分析から、『水滸伝』の成立過程を探る研究も近年盛んとなっている。
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