人権活動期
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1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。 人民解放軍が天安門広場に突入する寸前、4人は学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍と交渉し、「四君子(4人の指導的知識人)」と呼ばれた。 事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他の政治リーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。 2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}以後は外国要人訪中や人民代表大会会期中は自由を失い、電話・インターネットによる交信が遮断された[要出典]。 2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」(クーデターの扇動)による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり遼寧省錦州市の錦州監獄で服役した。 2010年にノーベル平和賞を受賞し、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。 劉は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。 投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー以来2人目である(1991年に受賞したアウンサンスーチーは獄中ではなく自宅軟禁中)。 受賞から死去まで一度も解放されなかったノーベル賞受賞者は劉暁波のみである。
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