人待つ女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 00:18 UTC 版)
本曲の後場の詞章 徒なりと名にこそ立てれ櫻花。年に稀なる人も待ちけり。かやうに詠みしも我なれば。人待つ女とも云はれしなり。「徒なりと名にこそ立てれ櫻花。年に稀なる人も待ちけり」。このように詠んだのも私であり、それ故に「人待つ女」とも言われた に登場する「人待つ女」という語が古注に典拠を持つ事が1960年代に分かると、八嶋正治、堀口廉生、西村聡といった研究者が「人待つ女」としての「不変の愛」で、「業平を一心に恋い慕う」、「純真さ」が強調され、こうした論考に沿った解釈が多数派を占めるようになり、この「人待つ女」を本曲の主題とみなすのが有力となった。ただし、「人待つ女」を本曲のごく一部の装飾とみなす立場も存在する。 なお本曲において「待つ」という語が登場する箇所はもう一つあり、それは前場冒頭で紀有常女が自身の境遇を嘆いて独りごちる下記の場面である。 忘れて過ぎし古を、忍ぶ顔にて何時までか待つ事なくて存へん私も忘れていたはずの昔を、いつまでも偲んでいるありさまだけれど、ずっと人を待ち、こんな風に過ぎて行くのだろうか こうした「人待つ女」を重視する解釈に従えば、本曲は例えば以下のように理解できる。まず伊勢物語の筒井筒の物語で、女は縁談を断って愛する男を待ち続け、結婚後も浮気する夫の帰りを待ち続けている。それゆえ能の井筒では筒井筒の物語を、愛する夫を待ち続ける物語として再解釈していると解され、待ち続ける辛さや喪失感を詠った和歌がいくつか追加されている。(和歌の節参照) また井筒は時間の流れと逆順に構成されており、夫の死後の弔いから始まり、浮気する夫を待ち続けた話へと向かい、そして最後に物語の核心である夫との馴れ初めへと向かう。これにより物語は「夫への一途で純粋な恋の思いへと集中」してゆく。 一方で飯塚恵理人は、『冷泉家流伊勢物語抄』や『伊勢物語知顕集』といった古注を参考に、本曲が作られた当時、「人待つ女」が今日のように帰らぬ業平を「待ち続けた女」の意ではなく「待ち得たる女」(待った結果、業平が帰ってきた女)と解釈されていたと考証し、その傍証として古注の他の段を参考にする事により、当時の紀有常女像は「業平の幼ななじみであり、生涯に渡った「正妻」であり、お互いに浮気をして疎遠になったこともあったが、歌を媒介として愛情を回復し、業平と添い遂げた女性」というものであった事を考証している。 なお、室町末期の装束付には上述したいずれの解釈とも大きく異なるものがあった事が中村格により指摘されている。中村によれば前ジテに「深井」の面をかけ、後ジテに「十寸髪」(逆髪)の面をかけ、「序の舞」の前のセリフのところに「カケリ」を入れ場合によって「序の舞」も除き「カケリ」を演じることもあったという。 逆髪もカケリも狂気の女性に使われる演出であり、「狂う陶酔の姿態を現出せしところを眼目にした」曲味を窺わせ、それゆえ「今日の可憐に美化された曲趣としてではなく、より根元的な、人間の情念・ 罪業の深さとでもいうべきところから発想した曲として受容されていた」のではないかと論じている。
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