京成での変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 10:08 UTC 版)
1928年、津田沼でデッドセクションでの電気事故により104が全焼した。同年中にクハ126形と同形の車体を新製した。 1940年(昭和15年)2月、津田沼車庫の火災で104を再び焼失した。同年9月には宗吾参道駅付近での追突事故で115・116が焼失。これら3両は梅鉢車輛で200形を短縮した形の非対称車体を製造した(20形の中にも同様の車体を新造した車両があった)。1941年(昭和16年)末に復帰するまでの間クハ500形(501~503)に電装品を一時移設して走らせた。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により押上駅で109が被災。1948年(昭和23年)に国鉄モハ63形に似た前後対称の車体を帝國車輛工業で製造した(210(⇔511)・507・512も同様の車体で復旧)。131・134・135は戦災廃車となった。 1947年(昭和22年)、高砂車庫の火災で101・104・118が全焼、120が半焼。応急修理で復帰。 1953年(昭和28年)からは更新修理が行われた。高砂車庫火災で被災した104・101・118と123が半鋼製の非対称車体で竣工(104はウインドシル・ヘッダ有り、118・123は前面窓がHゴム)。1956年(昭和31年)竣工の117・122・102・103・112・121からは押上駅が地下駅に移ったことに関連して全金属製の非対称車体と変わった(この6両以外は側面ベンチレーター、窓枠は全金車も含め全車木造)。何度か仕様が変わったためスタイルは多岐に渡っている。126形は更新されなかった。また非対称車体とした理由は、車内の混雑率を平均化するため。 1963年(昭和38年)からは新京成電鉄への譲渡が始まり、1967年(昭和42年)までに25両全車を譲渡した。126形は製造当初の半鋼製車体のまま残りの7両全車が1959~1960年に新京成に譲渡された。
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