五輪マラソン代表選手選出を巡る騒動
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「小掛照二」の記事における「五輪マラソン代表選手選出を巡る騒動」の解説
小掛の名前を有名にしたのは、しばしば繰り返されるオリンピックマラソン代表選考をめぐる(マスコミを中心とした)騒動である。選考委員のトップ(強化本部長)として大きな影響力を持っていたため、実力の伯仲した選手を選考したりする場合その選考理由をめぐって小掛の意向が取りざたされ、結果として騒動と呼ばれる状況が時に生じた。ソウルオリンピック男子マラソンでは、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられていた福岡国際マラソンをけがで欠場し、びわ湖毎日マラソンで優勝した瀬古利彦が選出された。びわ湖毎日も選考レースの一つではあったため、強引に選考したわけではないが、出るべきであった福岡国際に出られなかった早稲田の後輩・瀬古への救済であるという批判も少なくなかった。瀬古の福岡欠場が決まった際に中山竹通は「自分なら這っても出ますけどね」と発言し、それが「瀬古、這ってでも出て来い!」などと挑発的な内容に歪めて報じられもした。 バルセロナオリンピック(1992年)では選考競技会の大阪国際女子マラソンで好タイムながら日本人2位の松野明美と、同じく選考会である前年夏の世界陸上4位(日本人では2位)の有森裕子が比較の対象となった。本番が夏のレースであることから、松野が選考直前に記者会見で「私は火の国の女だから私の方が(有森よりも)暑さに強い」とアピールするような事態となり、マスコミもこの選考を興味本位に取り上げ「恣意的な選考」「不透明」などと日本中で批判が渦巻き、国民的な議論を巻き起こした。有森が五輪本番で銀メダルを獲得して面目を保ったが、選考前後には、小掛の自宅に脅迫状や日本刀が送られてくるなど、大変な批判・いやがらせに見舞われた。2004年のアテネオリンピックの代表選考では、高橋尚子を推していたとされるが、強化本部長は既に外れ、委員10人中推したのは小掛1人だけで賛同は得られず、更に河野洋平会長も高橋の選考に否定的であったことから、高橋は選から漏れた。本番ではトップで選考されていた野口みずきが金メダルを獲ったため、結果的にはこのときの選考は大きな問題とはならなかった。これらの選考は毎回のように物議をかもしたが、女子マラソンを世界屈指の強国に育てあげた功績は大きい。 陸上競技と五輪に情熱をささげ続けた生涯だった。特に長年に渡り強化を推し進めた「マラソン日本」の礎を築いた。小掛の通夜に参列した高橋尚子は、「シドニーの金メダルは小掛さんの情熱と信念があったから取れたと思います」と涙ながらに語った。
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