事件前後から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:49 UTC 版)
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、1944年(昭和19年)10月10日の那覇市への空襲(十・十空襲)があってからは疎開者が相次いだ。対馬丸沈没の前後には潜水母艦迅鯨および長鯨、軽巡洋艦長良、練習巡洋艦鹿島などの艦艇も沖縄へ兵力を輸送する任務の帰途に疎開輸送を行った。沖縄からの疎開輸送には、1944年(昭和19年)7月から1945年(昭和20年)3月まで艦船延べ187隻が繰り出され、8万名以上が日本本土と台湾へ疎開した。ただし、この数字にそれ以外の時期や客船や漁船などによる自主的疎開は含まれていない。 対馬丸の他に、事故やアメリカ軍の攻撃によって27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んだ。その多くは、嘉義丸、湖南丸、宮古丸のような定期船や、富山丸のような軍隊輸送船であった。厚生省の調査では、3月上旬までの沖縄からの187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の事例である。調査外の時期の疎開船で犠牲者を出した事例としては、約70人が死亡したとみられる尖閣諸島戦時遭難事件が存在する。また、鹿児島県の徳之島からの疎開船武洲丸(日之出汽船、1,222トン)も同年9月25日に潜水艦により撃沈されており、対馬丸以外で唯一潜水艦に撃沈された南西諸島からの疎開船と見られる。 モ05船団、609船団、ナモ103船団で対馬丸と行動をともにした暁空丸は約1ヵ月後の9月18日、節船団で門司から上海に向かう途中にアメリカ潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SS-200) の雷撃で沈没し、和浦丸は途中病院船に転じて再び輸送船に戻ったあと、1945年(昭和20年)7月20日に釜山港外で機雷に触れ座礁し放棄され後に浮揚されて韓国船コリアとなった。疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県)や台湾で終戦を迎えている。
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