事件の謎
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この事件では週刊誌などではさまざまな情報が錯綜している。しかし、これらの情報の信憑性は定かではなく疑問点が多いものも少なくない。 徐は犯行前日の4月22日に渋谷のラブホテルへ宿泊しているが、この時女性も一緒にチェックインしていたという。この女性の正体については週刊誌によって異なり、『FRIDAY SPECIAL』(1995年6月1日増刊号)では女性は風俗嬢で徐はその常連だったと報道している。一方で「週刊ポスト」(95年5月26日)は20歳前後のアルバイト・ホステスをしている女だと報じた。なお、宿泊した理由について当時徐は「独りでは寂しかったので」と供述しているが、後年出版された『サリン それぞれの証』では「予約をとってあった渋谷にあるホテルに行き、宿泊しました。このホテルを選んだのは、もちろんオウム真理教の青山本部に近いからです」と答えているだけで、女性については触れていない。 また事件当日の昼に徐はコンビニ店へよっているが、この時アルバイトの店員から「徐が眼鏡をかけた30代の女性と会話しているのを目撃した」と証言が寄せられている。『日刊スポーツ』(1995年5月4日号)の報道によると、コンビニに設置されていた防犯カメラは故障していたという。『週刊現代』(1995年8月12日号)はこの女性をオウムの女性信者と紹介しているが、取り調べでは両者の供述は『道を尋ねた』『道を聞かれた』ということで一致してたためそれ以上詰められなかった、と報道している。 また事件当時、ジャーナリストの山路徹は、オウムの諜報省を名乗る人物から取材に誘われたという。 それによると刺殺事件当日に取材していた上九一色村で4時間、その後は青山総本部の地下休憩所で1時間待機させられた。 待機中、背後の扉を開けるような音が聞こえ(扉の向こうには村井がいたという)、その直後に事件が発生した。
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事件の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 21:45 UTC 版)
本事件にはいくつかの不審な点がある。 実行犯の父である阿部定吉の事後処遇であるが、何ら咎められる事もないばかりか、その後は暗殺された松平清康の息子である広忠の家臣として三河衆の統率を任されている。当時の慣行にしたがえば連座によって処刑。そうでなくとも何らかの咎めを受けるはずである。ただし、一説では定吉は息子の凶行に対する責で自害を試みたが、それを広忠が止めたために定吉は広忠に従臣したと説明されている。(阿部氏の直系子孫は、諸侯に二家が列して、備後福山藩主・陸奥棚倉藩主などとなる)正豊をその場で成敗した植村氏明であるが、後年、広忠が同じように暗殺された時にも、実行犯である岩松八弥をその場で成敗している。二代の主君が暗殺され、それを同一人物が成敗した事を単なる偶然ではないとする説もある。ただし、そもそも広忠の死因には諸説あり、また「岩松八弥が広忠を襲った」とする説もその顛末には諸説ある。
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