事件の政治利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:41 UTC 版)
「ドイツ国会議事堂放火事件」の記事における「事件の政治利用」の解説
「1933年3月ドイツ国会選挙」も参照 2月28日、ヒトラーは閣議にコミュニストと「法的考慮に左右されず決着をつける」ためとして、 「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」(以下「国家防衛緊急令」)と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe)」(以下「反逆防止緊急令」)の二つの緊急大統領令の発布を提議した。パーペンが「バイエルン州で反発を受けるかもしれない」と意見を述べたのみで、ほとんど修正される事無く閣議決定された。パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領も黙って承認し、国家防衛緊急令は即日、反逆防止緊急令は翌日公布された。これにより言論の自由や所有権は著しく制限され、政府は連邦各州の全権を掌握できるようになった。 3月1日、ゲーリングはラジオ放送で「共産主義を我々の民族から抹殺することが、私の最も重要な責務である」と述べ、「(国家社会主義)革命の敵に対しては、テロルの使用が不可欠である」と政府による白色テロを宣言した。共産主義者は次々と警察によって予防拘禁され、2日後には無政府主義者、社会民主主義者も対象に加えられた。 また、共産主義者の襲撃が起きるというデマが流され、共産党や民主主義政党の集会はナチ党の突撃隊に襲われ、共産党の指導者を含めた逮捕者や死者も続出した。選挙期間中に死亡したナチス党員は18人、その他の政党の死者は51人、負傷者は数百人にのぼった。 選挙の結果、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退した。一方ナチ党は199議席から288議席へと躍進したが、全体の647議席の過半数獲得には至らなかった。 1933年3月23日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂となったクロルオーパー(クロルオペラ劇場)で総選挙後初の本会議が開催された。出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で「欠席」した。 出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチス党はドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させた。この法律は国会審議・議決なしに広範な範囲の法令を制定する権利をヒトラー政権に認めるという、一種の憲法改正的法令であった。議場の周辺には親衛隊がピケラインを張り、議場内の廊下には突撃隊員が立ち並んでいたという。 この事件をきっかけにナチ党がテロ独裁樹立への第一歩を踏み出した。
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