久留米藩有馬家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 14:34 UTC 版)
「久留米藩」も参照 分家にあたる有馬重則は播磨国美嚢郡に進出し、同族の別所氏やその縁戚の淡河氏と対立した。その子の則頼は豊臣秀吉に従い、後に御伽衆に列し聚楽第に屋敷を与えられた。則頼の次男豊氏は豊臣秀次の家老渡瀬繁詮に仕えていたが、文禄4年(1595年)に繁詮が秀次事件により改易されるとその領地である遠江国横須賀3万石を引き継いで治めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。慶長7年(1602年)に則頼が没すると豊氏はその遺領を含め8万石に加増された。その後、大坂の陣においても徳川方として活躍したため、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の藩主となった。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。久留米藩主としての初代は豊氏であるが、「久留米藩有馬家」当主の代数は則頼を初代として数えられる。 明治4年(1871年)、11代藩主(12代当主)有馬頼咸の代で久留米藩は廃藩置県を迎えた。有馬家は華族に列し、華族令の公布にともない頼咸の五男である14代当主有馬頼万は伯爵に叙せられた。 15代当主有馬頼寧は、大正・昭和期に活動した政治家として知られる。農政・教育・社会事業やスポーツに携わり、戦前は農林大臣、大政翼賛会事務局長などを歴任。戦後には日本中央競馬会第2代理事長としてファン投票による出走馬の選定という当時前代未聞の画期的な選抜方法を考案し、有馬記念にその名を残している。頼寧の三男で16代当主の有馬頼義は第31回直木賞作家である。頼義の子で17代当主の有馬頼央は有馬家ゆかりの神社水天宮の神職及び奨学団体の理事長を務めている。
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