久留米藩尊王攘夷派政権
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「久留米藩難事件」の記事における「久留米藩尊王攘夷派政権」の解説
「水野正名」も参照 大政奉還後、久留米藩の尊王攘夷派は勢いを盛り返した。明治元年(1868年)1月26日、小河真文・佐々金平ら少壮藩士のグループ(「明治勤王党」と称される)が参政不破正寛を襲撃・殺害し、藩主に対して「斬奸趣意書」と藩政改革に関する意見書を提出。2月、水野正名は久留米藩参政に復帰。水野は尊王攘夷派政権を樹立し、今井栄らに切腹を命じるなど佐幕開明派を粛清した。明治元年5月、水野は佐々金平の建言を受け、長州藩奇兵隊をモデルとして、藩正規軍とは別に武士・農民・町民を混成した応変隊を編成し、箱館戦争に派遣した。 明治2年(1869年)6月17日、水野正名は版籍奉還にともない久留米藩大参事となった。一方で、応変隊や、新たに編成された七生隊といった過激な私兵集団が勢いを持ち、水野にも抑制が困難になっていったとされる。
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