中国への協力
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「ンガプー・ンガワン・ジクメ」の記事における「中国への協力」の解説
ジクメは1952年に人民解放軍司令官張国華の第一補佐に任命されてからは、中国の手先のようにして働いた。1954年の終わり、ダライ・ラマ14世は全国人民代表大会の常務委員会副委員長に選ばれて全人代への出席と毛沢東と対談するため、北京を訪れた。この間、西藏自治区籌備委員会が設立された。初代主任委員にはダライ・ラマ14世、ジクメはチベットのカシャ(内閣)から準備委員会の書記長に選出された。(以後の経歴は中国語版が詳しい) 1958年にはチャムドに端を発するチベットの大規模な反乱が起こる。1959年3月10日には「中国が観劇を口実にしてダライ・ラマ14世を拉致する」との噂が流れ、首都ラサでも暴動が起こる。ジクメはダライ・ラマの使いとして中国チベット軍区司令部に観劇を断る旨を伝えている。結局、この影響で1959年3月17日、カシャ(内閣)とツォンドゥ(議会)は公式に十七か条協定破棄を宣言し、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。3月28日、中国の国家評議会はチベット地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会の委員長にパンチェン・ラマ10世を、副委員長・事務局長にジクメを任命した。 1960年に中国はチベット貴族から土地を買い上げ、農民に与えた。ジクメからは44万7千元分の土地を買い上げ、第1回目の支払いとして4万8千元が支払われている。 1965年9月9日、形式的な選挙の後、中国はチベット自治区を発足させ、ジクメは人民委員会主席となった。 チベットにおける文化大革命は1966年5月に漢人紅衛兵約500人がラサにやってきたことから始まった。文化大革命ではチベット文化やチベット僧が弾圧されたが、当時のチベット政治家も攻撃され、ジクメもまた糾弾を受けている。
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