不良債権処理の遅れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 00:20 UTC 版)
三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、三和・東海はそれぞれ近畿地方・東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエー、ニチメン・日商岩井(現・双日)、日本信販(現・三菱UFJニコス)、アプラス、大京、国際興業、国際自動車などみどり会構成企業や三和銀行親密先および、東海銀行のフジタ・藤和不動産(現・三菱地所レジデンス)・トーメンに対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字を計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月、金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「金融再生プログラム」が発表された。これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る。」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した大和銀ホールディングスは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「りそなショック」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。 結果、日本の株式市場はりそなショック後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1300億円程度であった。
※この「不良債権処理の遅れ」の解説は、「UFJ銀行」の解説の一部です。
「不良債権処理の遅れ」を含む「UFJ銀行」の記事については、「UFJ銀行」の概要を参照ください。
- 不良債権処理の遅れのページへのリンク