下院委員会での性差別に関する公聴会
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「マーキュリー13」の記事における「下院委員会での性差別に関する公聴会」の解説
ペンサコーラでの試験が中止になったとき、コッブはすぐにワシントンD.C.に飛び試験の再開を求めた。コッブとジェニー・ハートは、ジョン・F・ケネディ大統領に手紙を書き、リンドン・ジョンソン副大統領を訪問した。そして、1962年7月17日と18日、ニューヨーク州選出のビクター・アンフーソ(英語版)議員が、下院科学・宇宙飛行委員会の特別小委員会で公聴会を開いた。この公聴会では、1964年公民権法が成立して性差別が違法となる2年前に、性差別の可能性が調査されたのが大きな特徴である。 コッブとハートはラブレスの民間プロジェクトの利点について証言したが、ジャクリーン・コクランは、女性宇宙飛行士を養成するための特別なプログラムを設定することは、宇宙計画に悪影響を与えるのではないかという懸念を語り、彼女らの証言を大きく損なった。コクランは、夫とともにプロジェクトに資金を提供していたことから、マーキュリー13の活動に対して大きな発言力を持っていた。1960年にプログラムに参加することになったコクランは、プログラムをどのように変更すべきかについて、多くの提案を書いた。そのひとつが年齢制限で、これを変更すれば彼女はマーキュリー13のメンバーとして活躍することができた。また、コクランは当初はこのプログラムを支持していたが、後に、反対するようになった。コクランは海軍とNASAに宛てて、このプログラムがNASAの目標に沿って適切に運営されているかどうかを懸念する内容の手紙を送っており、これが、最終的にプログラムの中止の大きな決め手になったと考えられる。コクランがマーキュリー13のプログラムに反対するようになったのは、自分がアメリカで最も著名な女性飛行士でなくなることを懸念したためというのが一般的な見方である。コクランは公聴会で、「宇宙開発は時間が勝負であり、計画通りに進めることが、宇宙開発競争でソ連に勝つための唯一の方法である」として、女性を宇宙開発に参加させることに反対を唱えた。コクランの証言は、マーキュリー13の宇宙開発への参加に大きな影響を与えた。 NASA長官のジョージ・ロー(英語版)や宇宙飛行士のジョン・グレン、スコット・カーペンターは、NASAの選考基準では女性は宇宙飛行士候補としての資格を得られないと証言した。グレンも「女性がこの分野にいないのは、我々の社会秩序の事実である」と考えていた。彼らは、NASAが全ての宇宙飛行士に対し、ジェット機テストパイロットプログラムの卒業と工学の学位を要求していることを伝えていたが、一方で、ジョン・グレンが必要な学位を取得せずにのマーキュリー計画に配属されたことを認めていた。1962年当時、アメリカ空軍の訓練学校では女性の入学が禁止されており、アメリカ人女性が軍用ジェット機のテストパイロットになることはできなかった。マーキュリー13の中には、民間のテストパイロットとして雇用されていた者もおり、プロペラ機での飛行時間が男性宇宙飛行士候補者よりもかなり長い者が多かったにもかかわらず、NASAはプロペラ機での飛行時間をジェット機での飛行時間と同等のものとすることを検討しなかった。ヤン・ディートリヒは8千時間、ウォリー・ファンクは3千時間、アイリーン・レバートンは9千時間以上、ジェリー・コブは1万時間以上の飛行時間を記録していた。小委員会のメンバーの中には、このような経験の差を理由に女性たちの主張に共感する人もいたが、結果的には何も起こらなかった。 副大統領リンドン・ジョンソンの秘書のリズ・カーペンターは、NASA長官ジェームズ・E・ウェッブにこれらの要件を疑問視する手紙を起草したが、ジョンソンはその手紙を送らず、代わりに「今すぐにやめさせろ!」と書いた手紙を送った。
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