下町の結核患者
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基次郎は親への負担を顧みると同時に、実家の周辺の人々の暮らしぶりや世間に目を向け、自分と同じ結核患者達の末路を見聞した。 僕もこちらへ帰つてから小さい町の人達がどんな風に結核にやられてゆくかをいくつも見聞いたしました。ある若い独り者は首を吊りました。大家がその紐を競売して家賃の滞りや借金などを済し葬式を出してやつたさうです あるまた若い男は何とか教の寺へ行つてたくさんの病人達と「信心で癒る」といふやつで暮してゐたのださうです 一年か経つて和尚の云ふには、お前はもう病ひは綺麗にぬけたが寿命がない この上は家へ帰つて仕度い放題のことをして死になさい それで家へ帰つて来たのですが間なしに死にました 尤も死ぬまで快活だつたさうです。 — 梶井基次郎「川端秀子宛ての書簡」(昭和4年8月20日付) この阿倍野町で結核を患う人々のほかの挿話の一部(魚屋の咳)は『交尾』で触れられているが、より具体的に様々な人々の挿話が『のんきな患者』に盛り込まれ、満足な養生や病院での治療が受けられない貧しい人々の様々な姿が作品主題として生かされることになった。 またある家からはだしぬけに葬式が出る、きいて見ると一年以上も寝たまゝだつたといふのです こんな家では金もなく知識もないので病気にとりつかれたが最後寝てそれから死んでゆくより仕方ないのでせう 葬式が出るとまたもとの通り商売をしてゐるので変な気になります。病人のことを思ふと心がしめつけられるやうです たいていはこんな風にして死んでゆくのでせう これが結核だからいけないのです ほかの病気ならどんな病気でもみな結核よりはましです 世のなかといふものへ結核が冒してゆくのを考へると全く眼に見えるやうで苦しくなります — 梶井基次郎「川端秀子宛ての書簡」(昭和4年8月20日付) 当時(大正から昭和初期にかけ)、結核は不治の病で日本人の死因の第1位であった。厚生省公衆衛生局が調査した1928年(昭和3年)の実態調査によると、日本国内の結核感染と推定される患者総数は553万人(日本人口の約6.4パーセント)で、その内訳は、治療を要する患者が292万人(人口の約3.4パーセント)、要観察患者が261万人(人口の約3.0パーセント)だった。 まだ特効薬のなかった結核に罹患してしまったら、養生に気をつけ病気の進行を遅らせるほかに道はなく、生活に余裕のない貧乏な庶民は必然的に病状が悪化しやすい傾向となり、貧富の差が結核の進行も左右していた。『のんきな患者』の作中にもあるように、大阪の下町庶民は何とか治りたい一心で民間療法や迷信に縋り、日々の糧を得るためぎりぎりまで働いていた。 この頃、基次郎自身も夏は浜寺の海水浴場で日焼けに勤しみ冬に備えて皮膚を鍛えたり、熱の上がり下がりで一喜一憂したりの生活をしていた。睡眠鎮痛剤やドイツ製の肝油のほかにも、ニンニクを常食する民間療法で〈ねばり強さ〉を養い、周囲の人に臭がられていたほどだった。 なお、作中で回想されている青物売りの女が持って来た〈人間の脳味噌の黒焼〉のことは、遺稿断片「薬」(1930年)でも描かれている。
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