下町での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
安永6年(1777年)春、15歳の時に江戸に奉公に出て以降、俳諧修行の旅以外は一茶は江戸住まいを続けていた。享和3年(1803年)以降、一茶が江戸のどこに住んでいたか、ある程度判明している。享和3年、一茶は本所五ッ目大島愛宕山(江東区大島5丁目)に住んでいた。愛宕山とは真言宗の愛宕山勝智院のことで、住職が葛飾派の俳人であった関係で、一茶は勝智院に間借りしていたと考えられる。なお、その後勝智院は千葉県佐倉市に移っており、勝智院のあった場所は大島稲荷神社となっている。 しかし愛宕山での生活は長くは続かなかった。文化元年(1804年)4月、葛飾派の俳人であった住職が亡くなった。後任の住職の下で一茶は間借りを続けることは出来なくなり、両国の近くの本所相生町5丁目(墨田区緑町1丁目)に引っ越した。この相生町5丁目の家は間借りではなく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、垣根には季節になると朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着きが出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。この相生町5丁目の家は、一茶が遺産相続問題に本腰になって取り組んだ文化5年(1808年)、200日以上という長期間、留守にしていたために他人に貸し出されてしまうまでの約4年間、生活した。 この頃、一茶が詠んだ俳句の中には江戸の下町暮らしを髣髴とさせるものがある。 文化元年(1804年)の作である、梅の季節、誰が訪ねて来ても欠けた茶碗でもてなすしかないと、貧乏で孤独なわび住まいを詠んだ 梅が香やどなたが来ても欠茶碗 や、 文化3年(1807年)の作で、今年もまた役立たずの邪魔者(娑婆塞)なのだと、己と草ぼうぼうの自らの家を自嘲した 又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家 などが挙げられる。 文化時代前半期、父の死による精神面、生活面での変化に加え、江戸下町での暮らし、そして後述する一茶が所属していた葛飾派の枠を超えた有能な俳人たちとの交流などによって、一茶の俳句は磨かれていった。この時期は一茶独自の俳風である「一茶調」がはっきりとし始める時期であると評価されている。
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